グラント将軍植樹碑(渋沢栄一ゆかりの地28)
今日は、用事があり東京に行ってきました。そのついでに上野公園にあるグラント将軍の植樹を記念した「グラント将軍植樹碑」を改めて見てきました。
「グラント将軍植樹碑」は、上野駅公園口から上野動物園に向かってあるくと左手にあります。小松宮彰仁親王の銅像が目印です。最下段の地図をご参照ください。

この石碑は、昭和5年5月に、渋沢栄一と益田孝により建立され東京府に寄付されたものです。
石碑の中央にはグラント将軍のレリーフ、右側に日本語の碑文が書かれ、左側には英文で碑文が書かれています。

右側の日本語の碑文には、この記念碑が建立された経緯が書いてありました。この碑文を読むとグラント将軍の歓迎がどのように行われ、この記念碑がどうして建てられたがわかりますので、ちょっと難しいですが、碑文の通り書いておきます。
グラント将軍植樹記念碑碑文
明治十二年米国前大統領ユリシーズ・シムプスン・グラント将軍来航せらる。明治天皇勅使を遣し、軍艦を派して将軍を長崎に迎接せしめ給ひ、其入京するに及びては浜離宮に館せしめ、待つに国賓の礼を以てし、備に懇款を極め給ふ、蓋し特例なり、将軍は西暦千八百二十二年米国オハイオ州の農家に生る、南北戦争起るに及び、奮然剣を提げて北軍に投じ、力戦して殊功あり、挙げられて其総指揮官となり、騒乱を平定して南北一統の基を成し、偉勲に依りて米国陸軍の総指揮に任ぜらる、而して衆望の帰する所千八百六十八年、遂に第十八代の大統領に推され、能く戦後の国政を総攪して亦大に治績を挙げたり、千八百七十五年再任の期満つる後、夫人及末男を伴ひて世界周遊の途に上る、我邦に渡来せられたるは即ち此時にあり、将軍資性真率重厚、深く東洋の平和に意を注ぎ、我邦の内治外交につきて屡当路に進言する所あり、為に我が国運の伸張を助くるもの甚だ多しと云ふ、此年七月三日将軍の入京せらるゝや、上下挙りて熱誠に之を迎へ、尋で或は夜会を開き、或は演劇を催せしが、八月廿五日に至り府民の名を以て上野公園に車駕の臨幸を仰ぎ、将軍及夫人を招請して槍術・剣術・騎射・犬追物等を観覧に供し、還幸の後、盛宴を張りて以て大に歓迎の意を表し、此に所謂国民外交の端を啓きたり、此日将軍は記念の為め手づから此処に扁柏(へんぱく:ヒノキのこと)を植ゑ、夫人も亦玉蘭(ぎょくらん)を植ゑられたり、爾来春風秋雨五十年、二樹歳と与に成育繁茂せりと雖も、人の其由来を知るもの漸く稀なり、予等親しく此盛事に与れる者深く之を憾とし、乃ち碑を建てゝ事の梗概を叙し、以て永く後人をして聖主英将遭逢の跡を偲ばしめんとす
昭和四年八月 子爵 渋沢栄一
男爵 益田孝
この碑文の中に「此日将軍は記念の為め手づから此処に扁柏を植ゑ、夫人も亦玉蘭を植ゑられたり」(赤字部分)と書かれています。
これは、グラント将軍の歓迎会が行われた際に、グラント将軍がローソンヒノキを植え、夫人が玉蘭つまりタイサンボクを植えたということを言っています。
このグラント将軍夫妻が植えたローソン・ヒノキは「グラントヒノキ」と名づけられ、玉蘭は「グラント玉蘭」と呼ばれました。そして、それらは今も現存しています。なお、玉蘭は、現在は、「タイサンボク」と呼ばれることが多いようです。
グラント将軍が植えたローソン・ヒノキは、あまり元気がないように見えましたが、夫人が植えた「グラント玉蘭(タイサンボク)」は枝葉を広げて大きく育っています。
⑴記念碑前からみたグラントヒノキ(ローソン・ヒノキ)とグラント玉蘭(タイサンボク)、写真右手がグラントヒノキ、左がグラント玉蘭(タイサンボク)

⑵小松宮彰仁親王像側からみたグラントヒノキ(ローソン・ヒノキ)とグラント玉蘭(タイサンボク)

⑶グラント将軍が植えたグラントヒノキ(ローソン・ヒノキ)
①全景

②地面に埋め込まれた樹標、右から「ぐらんとひのき」と書かれています。

⑷グラント将軍夫人が植えたグラント玉蘭(タイサンボク)
①全景

②地面に埋め込まれた樹標、右から「ぐらんとぎょくらん」と書かれています。

昭和5年5月30日に記念碑の除幕式が行われました。除幕式の後、会場を精養軒に移し、そこで栄一が懐旧談を語っていますが、その中に次のような部分があります。デジタル版『渋沢栄一伝記資料』収録の「竜門雑誌 第501号」から引用させていただきます。
「アメリカに対する我官民の友情の深いことは、今更申上げるまでもございませぬが、ことに明治12年にグラント将軍の御出(おいで)の時分に民間の人々、すなわち吾々共大(い)に歓迎の意を強うしまして、益田君と福地源一郎君(桜痴)という人と私などが、その首脳の位置に立ち、特にグラント将軍の歓迎会というものを設けまして、追々方法を講じて歓迎をしようということになりましたが、さて何をしたらよかろうかと考えて見ると、どうも日本流の御饗応がお気に入りはすまいし、さらばといつて西洋式のことは吾々は何も知らないから余程困りましたが、第一に夜会を開こうというので、政府の建物の工部大学を拝借して、そこで夜会を催しました。それから更に一つ新しく劇を作って、丁度折柄に新富座というものが初(はじめ)て出来た頃あいであった為に、その新富座にグラント将軍を御招待申して、丁度仲間の中に福地桜痴がはいって居りましたので、その人の手によって将軍にちなんだ新劇を仕組んで御覧に入れました。 」
この引用した懐旧談の最後の赤字部分は、「青天を衝け」第35回で、栄一や福地源一郎たちが歓迎方法をどうしようかという場面、そのままだと思いました。
そうして、続いて、上野での歓迎会について次のように語っています。
「更に進んで歓迎の一つの手段として8月の25日を期して、上野において日本の古武術を御覧に入れたい、それは流鏑馬・母衣引・犬追物、この三つを御覧に入れたいというので、この場合には明治天皇にも御臨幸を願うてともに御覧を頂くことにしたら、吾々の催す歓迎上大(い)に意義あることになり、また将軍は慰労会等において度々陛下にお会いになった御様子であるから、益々日米の国交を親善ならしむることであろう。あえて政治に関係ある吾々ではございませぬけれども、両国の間の益々親睦を望む為にそういう催しを致しました(後略)」

