開拓使官有物払下げ事件(「青天を衝け」199)
「青天を衝け」第36回では、大隈重信が政府を追われる「明治14年の政変」も描かれていました。その「明治14年の政変」の原因とも、その過程とも位置付けられる重要な事件が「開拓使官有物払い下げ事件」です。今日は、その「開拓使官有物払い下げ事件」について書いていきます。
「開拓使官有物払い下げ事件」とは、簡単に書くと、開拓使長官黒田清隆が,官有物を同じ薩摩藩出身の五代友厚に法外の条件で払い下げようとしたとされる事件です。黒田清隆の下写真は国立国会図書館「近代日本人の肖像」からの転載です。

開拓使は、北海道、樺太などの開拓のために版籍奉還直後の明治2年7月に設置されました。開拓使の初代長官は元佐賀藩主であった鍋島直正、2代長官は公卿の東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)でした。明治3年5月に薩摩藩出身の黒田清隆が開拓次官となり実力者として運営していました。そして、黒田清隆は明治7年に3代長官となりました。
黒田清隆は、開拓次官であった明治4年10月、開拓使の10か年計画を立てて、明治5年から実行に移し多額の投資を行ない(開拓使開設以来の投資額は1410万円)、北海道の開拓に努力しました。「少年よ大志を抱け」で有名なクラーク博士を札幌農学校教頭に招聘したのも黒田清隆でした。
この10か年計画の最終期限が明治14年に到来するにことになり、この計画をさらに継続するか満了とするか、そして開拓使をどうするかが議論となりました。もちろん、黒田清隆は延長を希望していました。
そうした状況の中、明治14年6月に、五代友厚は大阪の商人たちと共同で「関西貿易社」という会社を設立し、開拓使に鉱山と山林の払い下げを出願しました。
五代友厚と黒田清隆は、五代友厚のほうが5歳年上で、ともに鹿児島の城ヶ谷(じょうがたに)という同じ方限(ほうぎり)で育った仲でした。
また、開拓使が廃止された場合の開拓使の官吏の仕事を考えて、開拓使の幹部たちが「北海社」という会社を結成し、開拓使が所有していた倉庫、土地、牧場、船舶などの払い下げを願い出ました。
黒田清隆は、これらの出願を受けて、これまで1400万円余りの投資をしていた官有物を38万円で払い下げ、支払いは30年の分割払いとする法外の払い下げ条件を決めて、中央政府に伺いを出しました。
多くの薩長出身者が賛成するなかで、大隈重信は、これに強く反対しました。
また、三菱は、北海道航路を独占しようしていましたが、北海社が事業を始めると、三菱にとっても大きな影響を与えることになることから、三菱も開拓使官有物払い下げに反対しました。
さらに、こうした情報を得た『東京横浜毎日新聞』や『郵便報知新聞』が7月末から払い下げについて糾弾を開始しました。
これを受けて、当時高まっていた自由民権運動の中で、民権派の人たちも政府への攻撃を強めました。
このように、払い下げ反対の世論が高まるなかで、政府内では、大隈重信が世論をあおっているという声が強くなりました。
大久保利通が暗殺された後、薩摩藩出身者は、黒田清隆や西郷従道を中心にまとまり、長州閥に対抗するため当時の政界の実力者である大隈重信に近づきました。そのため、大隈重信は黒田清隆や西郷従道たちと親交を強めていました。しかし、この開拓使官有物払い下げ事件により、大隈重信と薩摩閥との連携は崩れることとなり政府内で大隈重信が孤立し、「明治14年の政変」での大隈重信の失脚を引き起こす呼び水となりました。
世論の強い反発を受け、開拓使官有物払い下げは、最終的に明治14年10月12日に中止となりました。
これと同時に、国会開設の詔勅が発せられ、大隈重信が失脚することになりました。これが「明治14年の政変」です。
「明治14年の政変」については次回説明します。
【11月26日追記】
「青天を衝け」で五代友厚と栄一が、五代友厚「おいは、きたなか商いはしちょらん。」、栄一「なぜ反論しないのですか。新聞が書き立てているものはでたらめばかりじゃぁないですか」、五代友厚「そのうち、別の新聞が真実を書いてくれるだろう」と会話していて、開拓使官有物払い下げ事件は、五代友厚を悪者とみる説は、事実と違っていると話をしていました。
これに関連して、五代友厚について詳しく研究した宮本又次が「五代友厚伝」の中で次のように五代友厚が私利私欲でなく、北海道を開拓して国家のために役立つようにしたいと考えていたはずだと書いていますので紹介しておきます。
「もとより五代らの関西貿易社が北海社と同一体で、北海社が五代の『かくれみの』であったかどうかは不明だが、五代の運動を私利私欲を図るものと見るのは曲解であろう。五代が士魂商才、よく大局からものを見、行動をしてきたことは、これまでの経歴がよく物語っている。
当時あちこちの官有物が続々民間に払下げられていたにしても、これはやはり民業の隆盛を助長している。五代にして見れば、開拓使がなし得なかった北海道開拓事業も自分ならばかなり効果的に能率をあげうる自信を持っていたのであろう。
『薩摩芋は白昼も横行する泥棒なり』との激論はあまりなる曲解というべく、民権論者がためにする政府攻撃の材料とするものであろう。」
「青天を衝け」での五代友厚は、この宮本先生の説にそった描き方だと感じました。

