大隈重信、明治14年の政変で失脚する(「青天を衝け」200)
今日は、大隈重信が政府から追放された「明治14年の政変」について書いていきます。大隈重信の下写真は「国立国会図書館近代日本人の肖像」からの転載です。

大久保利通が暗殺された後、政府を背負って立ったのは、大隈重信と伊藤博文でした。大隈重信が大蔵卿、伊藤博文が内務卿という体制でした。大隈重信と伊藤博文・井上馨は、明治初期の大蔵省でともに日本の近代化のために頑張った同志でした。しかし、明治13年頃になると、大隈重信と伊藤博文の距離が少し離れてきました。
その最も大きな違いは国会開設についての考えでした。伊藤博文は漸進的な考えを持っていましたが、大隈重信は急進的な考えを持っていたのでした。
明治13年になると民権派の人たちの国会開設請願運動は頂点に達しました。
これを受けて、政府は憲法制定と国会開設を模索するようになり、参議がそれぞれ考えをまとめた意見書を天皇に提出することになり、伊藤博文、井上馨、黒田清隆らが意見書を提出しました。しかし、大隈重信は、すぐには提出しませんでした。
明治天皇から有栖川宮を通じた催促を受けて(伊藤之雄著「大隈重信」より)、大隈重信は、明治14年3月、「早急に憲法を制定し、2年後に国会を開設し、イギリス風の政党内閣制とする」という内容の意見書を、三条実美や岩倉具視さらにほかの参議に見せないことを条件に有栖川宮に提出します。
しかし、有栖川宮は、秘密と言われたのにもかかわらず、三条実美・岩倉具視に内々に見せました。
そして、3か月後の6月、伊藤博文は三条実美から知らされます。それを見た伊藤博文は、意見書の内容があまりにも急進的であることに大変驚くとともに、伊藤博文に秘密とされていたため、「これまで自分はすべて大隈に相談し意見交換してきたが裏切られた」と激怒しました。
伊藤博文の激怒を知った大隈重信は、7月4日、伊藤博文を訪れて謝罪します。伊藤博文は、表面上は謝罪を受け入れますが、真では大隈重信を許さず、大隈重信との決別を決意し、盟友の井上馨とともに、大隈重信包囲網を作り上げるよう動き出します。
こうした時期に、前回書いた「開拓使官有物払い下げ事件」が起きます。これにより、黒田清隆は打撃を受け、大隈重信と薩摩出身者との間に溝ができ、薩摩出身者は、自然と伊藤博文のもとに集まってくるようになり、薩長出身者による大隈重信包囲網ができあがりました。
しかし、ちょうどこの時期、明治天皇の東北・北海道巡幸が7月30日から10月11日まで予定されていて、有栖川宮、大隈重信、黒田清隆、大木喬任らが随行することとなり、伊藤博文と大隈重信との対決は一時棚上げとなりました。
巡幸に随行せず東京に残った伊藤博文は、着々と大隈重信追放の布石を打っていました。岩倉具視は持病の頭痛療養のため京都で静養していましたが、伊藤博文の使者が岩倉具視のところに向い、状況を説明し、大隈重信追放について同意を得ました。
こうして伊藤博文を中心とした薩長出身の参議は、三条実美、岩倉具視の賛同もえて、10月中旬には、大隈重信を内閣から追放すると合意していました。
そして、明治14年10月11日、明治天皇の東北・北海道巡幸が終わり、明治天皇を初め随行した人たちが東京に帰ってきました。もちろん大隈重信も帰りました。
明治天皇が皇居に戻ると、大隈重信を除いた大臣・参議一同から、憲法制定と国会開設、および大隈重信の免官が上奏されました。明治天皇は、内閣で決まったこれらの方針について、まったく知らされていないうえ、大隈重信の免官には消極的でしたが、内閣の一致した意見だということで、いずれも承知しました。
大隈重信への辞任勧告は伊藤博文が引き受け、11日深夜に西郷従道とともに大隈邸に行き大隈重信に直接伝えました。
これが「青天を衝け」で描かれた場面です。
大隈重信は辞職勧告を受け辞任を了承しましたが、辞表は天皇に拝謁して直接提出すると答えました。そして、翌日、皇居に向かいましたが、門衛に拒絶され拝謁はゆるされませんでした。この時の様子は、大隈重信自身が「大隈重信自叙伝」で詳しく語っています。
「明治14年(1881)の10月11日である。70幾日間、先帝の供奉で北から北海道を巡って帰って来ると、その間に政府では種々方略を回らしたものとみえるが、還った日の即夜内閣会議を開いて、我輩を追放することを決し、なんでも夜一時頃であったと思う、参議の伊藤と西郷(従道)とが、我輩のところへ遣って来て、唯単純な言葉で『容易ならざることだから』とだけで、ドウか辞表を出してくれと此方は多くを聞かずとも、その間の消息は大概分っている『ヨシ明日我輩が内閣に出る。辞表は陛下に入営つしてから出す』と云ったら、さすがこれには両人ちょっと当惑したらしいが、直ぐにこれを止める訳にも行かぬ。しかし、流石(さすが)にそれはいかぬと止めはしなかったが、我輩が宮中に行った時は、モウ門衛が厳重に遮(さえぎ)って入れさせぬ。有栖川宮、北白川宮とは御巡幸中同行でもあったが、有栖川宮様に行けば、やはりここにも門衛を置いて固く門を鎖(とざ)し、我輩の入るを拒絶すると云う始末。昨日まで供奉申し上げた陛下にも、御同行申し上げた宮様にも、今日は固(かた)めの門衛から拒絶されて御会いすることすら出来ないと云う、急転して体のいい罪人扱いとなってしまったんである。御免の辞令は司法卿の山田(顕義)が友人として持って来て渡してくれた。」
これを読むと、大隈重信が明治天皇や有栖川宮に会いたいと願って、皇居や有栖川宮邸を訪ねても、門前払いとされています。まさに大隈重信追放劇は、ドラマで描かれるようなクーデターだと言っていいと思います。

