岩崎弥太郎、東京風帆船社設立を妨害する(「青天を衝け」201)
「青天を衝け」第37回の予告をみると、「海運会社・共同運輸会社が設立され共同(運輸会社)と三菱が熾烈(しれつ)な競争を繰り広げる中、突然、弥太郎が病に倒れる。」となっています。
明日の「青天を衝け」では、岩崎弥太郎の三菱と栄一を中心とする反三菱連合の激しい海運競争が描かれることだろうと思います。
そうした事態になるのは、岩崎弥太郎が日本の海運を独占していることに、渋沢栄一や益田孝たちが、強く反発したことによります。
海運競争の第一弾が第36回に登場した東京風帆船会社でした。そこで、今日は、東京風帆船会社について書いていきます。
東京風帆船会社は、明治13年に、栄一が益田孝たちと相談して資本金30万円で設立した海運会社です。
益田孝は、旧幕臣でしたが、井上馨に見いだされて大蔵省に出仕しました。そして、明治6年に井上馨が渋沢栄一とともに大蔵省を退官した際に、益田孝も大蔵省を退官し、井上馨とともに「先収会社」という会社を設立し、そこで一緒に事業を行っていました。しかし、井上馨が政府に復帰するにあたり、「先収会社」は解散し、その事業を引き継いだ「三井物産」が設立され、益田孝が初代社長となりました。
三井物産は、現在の商社のさきがけで、各地の物産を移動させ商売をしていました。ところが、岩崎弥太郎の三菱が海運を独占していため、三菱の船舶にその運搬を頼らざるえませんでした。そして、海運を独占している三菱は運賃の値下げには断固として応じませんでした。そのため、益田孝は、自前の海運会社の設立を栄一に相談しました、栄一も合本主義の立場をとり、岩崎弥太郎の独占主義に反発していたため。益田孝に協力することとなりました。下写真が晩年の益田孝ですが、国立国会図書館「近代日本人の肖像」からの転載です。

この岩崎弥太郎との争いについて、栄一は、デジタル版「実験論語処世談」の中で次のように語っています。
「根本において、弥太郎と私とは意見が全く違い、私は合本組織を主張し、弥太郎は独占主義を主張し、その間に非常な間隔があったので、遂にそれが原因になり、明治十二三年以来、激しい確執を両人の間に生ずるに至ったのである。これは、明治十三年に至り、私や益田孝等が主唱し、伏木の藤井能三、新潟の鍵富三作、桑名の諸戸清六などを糾合し、海軍大佐遠藤秀行を社長とする東京風帆船会社を設立し、三菱の反対を張って見せ、次で明治十五年に至り、当時の農商務大輔品川弥二郎さんが三菱の海運界における専横を押さえんとして目論んだ共同運輸会社の設立に参画
この栄一の話のように、益田孝は、越中伏木の藤井能三、新潟の鍵富三作、伊勢の諸戸清六等の豪商にもよびかけ、東京風帆船会社の設立を計画しました。
設立発起人には、上記の4人のほか、渋沢栄一、渋沢喜作、大倉喜八郎などの名前のほか、三井組の三井武之助の名前や箱館の豪商宮路助三郎などの名前もあります。
東京風帆船会社の設立を探知した岩崎弥太郎は、すぐに妨害工作を講じました。
その一つが、新聞によるデマ情報です。「渋沢栄一」(鹿島茂著)によれば、「渋沢がコメ相場に手を出して大損を蒙り、第一国立銀行が破産しかけて、自殺を図ったという風評記事を載せた」そうです。
この話は、「青天を衝け」でも描かれていましたね。
また、栄一・益田孝の計画に協力を申し出た各地の有力者たちの切り崩しもおこないました。
「岩崎弥太郎伝」には次のように書かれています。
「明治13年東京においては益田孝が主唱となり、越中伏木の藤井能三、越後新潟の鍵富三作及び伊勢の諸戸清六、下里貞吾等の豪商これに応じて、風帆船会社なるものを東京に設立し、以(もっ)て海運業を営まんとするや、三菱会社は早くもこれを察知して直ちに競争の籌策(ちゅうさく:策略のこと)を案じ、一刻も猶予せす社員用達を四方に派遣し、新聞紙をして百方風帆船会社を抗撃せしめ、特に越中伏木へは当時前田氏の家扶たりし寺田成器(現三菱社員)を遣はし、藤井能三を説きて風帆船会社を離れて別に越中風帆船会社を設立せしめ、また越後新潟へは小野義真・川田小一郎を遣はし、同地の商人に勧めて徒らに望なき海運業を営まんよりは、寧ろ新潟物産会社を起すに如かず、若し物産会社を起さば本社よりは資本として一ケ年低利を以て貸付くべしと、終に物産会社を起さしめ、慶応義塾の出身なる西脇悌二郎を選んで之が社長とならしめたる」
このように、伏木の藤井能三には、「越中風帆船会社」を設立させ、越後の鍵冨三作には「新潟物産会社」を設立させるなどして、東京風帆船会社の設立を阻止しようとしました。
こうした三菱の妨害工作によって設立に苦労した東京風帆船会社は、それでも明治14年1月から営業を開始しました。
しかし、設立の段階から難産だった東京風帆船会社の前途は多難で、いつ倒産してもおかしくない状態で綱渡りの経営がつづき、ついには、政府のあと押しにより明治15年共同運輸会社ができるにあたって、解散することになります。

