岩崎弥太郎、共同運輸とのし烈な戦いの最中に死す(「青天を衝け」203)
共同運輸会社と三菱との海運競走は激しさを増しました。それがあまりにも激しいので、ついに政府が乗り出すことになりました。
明治18年1月13日、農商務卿西郷従道(つぐみち)は共同運輸会社と三菱の幹部を呼び出し、農商務大輔の品川弥二郎を通じて、両社に競走の中止を勧告しました。
これを受けて、両社は再三協議した結果、明治18年2月5日付で①運賃を定めること、②出航時刻を定めることなどを取り決めた協定を結びました。

共同運輸会社との競争激化する中で、岩崎弥太郎は明治17年の夏から胃痛に苦しみ食欲がなくなっていました。そこで、伊豆山で転地療養を行いましたが、快方に向かいませんでした。10月末には東京に戻って、駒込の別邸六義園で静養しました。しかし、病気がよくならない中、10月末には、下谷茅町の本邸に戻りました。
茅町本邸は、現在は、旧岩崎邸庭園として公開されています。下写真は、岩崎弥太郎の長男久弥が明治29年に建設した洋館です。ジョサイヤ・コンドルが設計したものです。

岩崎弥太郎は茅町本邸の床に伏したままで、共同運輸会社との競争について様々な指示を出し続けました。
病床から意気軒昂に指示を出し続けた岩崎弥太郎も病には勝てず、ついに年が変わった明治18年2月7日、享年50歳でなくなりました。岩崎弥太郎の病名は胃癌でした。
「岩崎弥太郎伝」は、臨終の際、部屋に弟の弥之助と長男久弥そして妻喜勢を呼びました。そして、弥之助と久弥に次のように語ったと書かれています。
「久弥!お前は己の死んだ後、万事をこの叔父さんに相談してやるんだそ。おじさんの息のある間は、決して自分ひとりで、勝手に事を極めるんぢゃないぞ」「ハイ」久弥の声は震えを帯びていた。
『彌之カ! それからお前に賴んで置く。お前は己の死んだ後、必ず己に代わって三菱の社務をみてくれ」
「ハイ、確(たしか)に承知仕りました。」
この弥太郎の言葉通り、弥之助は2代社長となり弥太郎亡き後の三菱を守り、明治26年には、久弥に社長をバトンタッチしています。
この後、「岩崎弥太郎伝」では、岩崎弥太郎が社員の処遇について次のように書かれています。これを読むと、「青天を衝け」で岩崎弥太郎は社員をこきつかう暴君のようにも描かれていますが、実際は、社員に対して思いやりが深かったたようです。
『それかもう一つ之は大切なことぢゃ。それは外でもない。今、己の使って居る三菱會社の社員ぢゃ。此社員は三菱の有らん限り一人も暇を出してはならぬぞ。老ぼれて役に立たぬようになっても必ず食うに困らぬだけの事はしてやれ! それでないと三菱の事業は末長く繁昌はせぬぞ。」
(弥之助)「確(しか)「と承りました。』」
ところで、東京日日新聞の明治41年3月27日号で渋沢栄一が岩崎弥之助について思い出話を述べる中で、岩崎弥太郎についても次のように語っています。
「余は海運橋際第一銀行の背後現在の地に事務所を設け居り、同家は弥太郎氏所有の家屋なりしを以て、氏は時々来訪して時事を談じたる事あり、入懇なりしも、其は私交のみ、主義の上には意見の背馳する処も多かりき、其後故品川子爵の後援を得て、益田(孝)・渋沢(喜作)・小室(信夫)等と計り共同運輸会社を起したるも、実は三菱に対抗する為めなりき、是よりは全然弥太郎氏と相背馳(はいち:反対すること)するに至り、双方の意志未だ融解するに至らず、如斯して反目の間に明治十八年弥太郎氏は逝去されたり。」
明治41年になっても、反目したまま岩崎弥太郎が亡くなったと語るところをみると、渋沢栄一は岩崎弥太郎とは仲直りをする機会はなかったように思います。
三菱を叱咤激励して共同運輸会社と激しく闘った岩崎弥太郎が亡くなったので、共同運輸会社と三菱の海運競走が収まるかと思われましたが、史実ではその通りにはならず、岩崎弥太郎が亡くなって間もなくの3月には、また、両社の競争が激しくなりました。そして、その競争が収まるのは、両社が合併して日本郵船が成立するのを待たなくてはなりませんでした。

