篤二、「大失策」を冒す(「青天を衝け」209)
渋沢篤二は、熊本で「大失策」を冒します。このことは渋沢家にとって大事件でした。この篤二の大事件について、「穂積歌子日記」に詳しく書いてあります。そこで、今日は、「穂積歌子日記」に基づいて、篤二の「大失策」について書いていきます。
熊本に行った篤二は、明治25年6月に熊本で入院しましたが、間もなく退院しました。穂積重行は「おそらく神経性のものだった」と推測しています。
そして、夏休に帰省した時も一見丈夫なようだったものの頭痛がとれませんでした。しかし、9月初旬、試験も近いとあって不安を残しながら出発しました。試験では合格はしたもののいわばギリギリというに近い成績であり、穂積歌子にとってとりあえず「まずまず」程度であり、多少の不安を残した結果でした。
篤二に対してそんな不安な気持ちを持っている穂積歌子のところに、明治25年11月16日になって、衝撃的な電報が届きました。穂積歌子の日記からその部分を紹介します。
「11月16日 杉山氏より驚くべき電報あり。(中略)夜 篤二君より電報、『ワタクシダイシツサク。イサイユービン』。」
五高の先生で、篤二の世話をお願いしている杉山(岩三郎)氏から驚くべき電報ありとだけ日記に書かれていて、その内容は書かれていません。穂積重行によれば、その後が空欄となっているのは、穂積歌子は、詳細を書こうと思っていたが、やはり書けなくて空欄のままとしたのではないかとしています。
そして、同日の夜に篤二から「私大失策。委細郵便」と書かれた電報が届きました。「青天を衝け」でも「ワタクシダイシツサク。イサイユービン」という文字がクローズアップした場面がありましたね。
ところで、詳細が書かれていない「大失策」とはなにかですが、穂積重行は、「『遊所(ゆうしょ:遊郭のこと)』に耽溺(たんでき)流連(りゅうれん:遊興にふけって家に帰るのを忘れること)しているということ」と「穂積歌子日記」の中で解説しています。
この電報が、篤二の事件の発端となります。それ以降、穂積歌子の日記には、しばしば篤二に関する記述が登場しますので、篤二に関する記述のおもな部分を書いてみます。
「11月21日 夜9時熊本より『篤二君マタ出タ。大阪へ行ク。』と電報あり。」
「11月27日 午後6時50分杉山氏より『コチラニ居ルコトマチガヒナシ。カネモツテ早クムカエ来タレ』と返電アリ。8時半「監督者ノ権ニテ腕力ニテモ連レカエリ。番ツケテオカレタシ。」とうつ。」
「11月28日 午後3時杉山氏より電報『昨夜七時頃つれ帰った。あとふみ』」
ここまでの記録で、篤二がまたいなくなって、大阪に出奔したのだろうと考えた杉山(岩三郎)から電報が届きますが、数日後には、熊本にいることが判明したと電報があったので、連れ戻してしっかり見張りをつけるように依頼していることがわかります。
「11月30日 旦那様(穂積陳重のこと)朝10時前お出まし。(中略)その後兜町へお出(いで)。(中略)。篤二君帰京後血洗島へ頼む事は大人(栄一のこと)も至極御同意、私よりも叔母上へ頼み遣(つかわ)すべしとのたまう。(※「私」は栄一自身のこと。)(中略)
午前杉山氏より26日出の書面来る。篤二君退校届ケは23日に中学へ差出し、速かに聞届けられしよし。同届書及び篤二君25日に出したる端書を送らる。兜町へ持参し大人にもお話申し上げたり。」
この日、兜町邸で栄一を含めて篤二の扱いについて協議が行われ、篤二が帰京したら血洗島の中の家(なかんち)にしばらく預かってもらうことに決まり、血洗島の叔母(栄一の妹てい)に栄一から頼むこととなりました。
※栄一は、明治23年に、深川福住町から兜町に住居を移していました。
また、この日の日記で、篤二の退校届が中学に提出され、「聞き届けられた」ことが書いてあります。
これに関して穂積重行は、「『退学をふくめて一切の処置を一任する』旨の電報をうち、杉山がこれを受けて事が大きくならないうちに手続きしたとも考えられる。『速かに聞届けられしよし』から、学校側もすでに方針を定めていたことがうかがわれる。」と書いています。
「12月5日、自分(穂積歌子)、深川九番地(尾高惇忠の隠居所)へ行く。伯父上御在宅、朝より叔母上(てい)もお出(いで)にて、旦那様(穂積陳重)もお出(いで)になりおり、種々御相談ありしよし。旦那様より伯父上(尾高惇忠)へ改めて詳しく申し上げ、夕飯御馳走になり、(中略)。8時頃まで伯父上の昔語り承り、御同道にて兜町へ行く。大川伯母上もお出あり。9時半大人(栄一のこと)御帰宅。大人より又改めて今回の事件及び向後処分方お話しあり。伯父上には、『私引受けて血洗島両人(市郎と貞)と共に篤二に謹慎致さすべし』との御答えあり。いよいよ尾高伯父上血洗島へ篤二を御召連れ、同家に托すとの事に定る。」
この日、深川福住町に隠居していた尾高惇忠の家(実は穂積夫妻が結婚後住んでいた家)に出かけ、尾高惇忠・ていと相談しています。そして、兜町の栄一のところに行き、篤二が帰京したら、尾高惇忠が引き受けて血洗島のてい夫婦とともに謹慎させることとし、尾高惇忠が血洗島に連れていくことに決まりました。
12月8日 篤二が東京に戻ってきました。そして、深川の尾高惇忠の隠居所に入りました。
12月9日の深夜、穂積歌子は、尾高惇忠の隠居所に篤二を一人で訪ねています。その時の様子も日記に書かれていますので紹介します。
「12月9日 暁一時過、深川九番地へ行く。(中略)客間において篤二君に面会、しばらくは涙にくれて言葉も出でざりけり。自分に対しては大に謹慎にて、実に面目なしと存するが如し。大過失の《空白》はまず差し置き、向来(きょうらい:これまでの意味)の心得方について懇々(こんこん)説諭す。大人(栄一のこと)を始め方々の厚き慈愛の程をも知らず、自ら身を捨てる如き処為(しうち)をなすはもってのほかなりと、よくよく申し聞かせたるに、同人申すには、帰京の上はいかなる御処分にあうとも決して恨みなしと覚悟しおりしに、かくの如き思し召しありとは、真に病(いた)み入る次第なり。この上は親族方の指図にしたがい、よくよく謹慎を表せし上お詫を申し上ぐべしとの意なり。(中略)」
この部分は、「青天を衝け」では描かれていませんでしたが、穂積歌子は、世話をしていた責任上、深夜に篤二にあってコンコンと諭しています。
そして、同じ日の午前中に、穂積歌子は栄一の住んでいる兜町へ向かってからのことが詳しく次のように書かれています。
「(12月8日)10時兜町へ行く。旦那様阪谷両所来(きた)りおらる。昼頃伯父上(尾高惇忠)御出(いで)。大人、篤二君大に悔悟しおるにつき、尾高渋沢両家にて預り謹慎させ、その上にてお詫を申入るべしとの事をお話しあり。大人は、また親は子を愛せざるにはあらざれども、世の中の道理を思い、二つには厳しくこらしめし上にてとの真情にて、表に怒りて面会を許さざるなれど、親族方もこの意を含みおり、懲らし(こらし)もし又励ましもなし給われとのお話あり。私と琴子は別して有難涙にむせびたり。大人はそれより鉄道会社集会へ御出席との事にてお出まし。午後2時なりけり。」
この部分は、「青天を衝け」で歌子と琴子が篤二に諭す場面として描かれています。
こうして、篤二は、12月11日に血洗島に向いました。「穂積歌子日記」では、10日に血洗島のていの夫市郎が出京したことが記されているので、市郎が篤二を迎えにきたものと思います。また、尾高惇忠も篤二を連れて血洗島に行くことと決定されていましたが、尾高惇忠が連れていったかどうかは「穂積歌子日記」からはわかりません。
なお、血洗島で篤二がどう過ごしたかについては次回改めて書きます。
【12月7日追記】
篤二の事件について栄一がどう考えていたか、その一端がわかる記述が穂積歌子日記にありましたので、その記述を紹介します。
「12月1日 大人(栄一のこと)より、自分等(歌子ら)この度の事件につきあまり深く心痛してはかえってご迷惑に思召(おぼしめ)さる。今に始めぬ事ながら、自分等(歌子ら)の心労は厚く謝する旨、伝言すべしと、琴子に仰えられしよし。」
栄一自身は、篤二の教育を、穂積歌子と陳重夫妻に託していましたが、今回の事件について、二人が自分たちの責任と思って心痛しないようにと心配りしている様子がわかります。栄一も、篤二の事件の責任の一端は栄一自身にもあると思っていたのではないでしょうか。