篤二、血洗島で謹慎する(「青天を衝け」210)
渋沢篤二は、明治25年12月11日に血洗島の叔母ていの夫渋沢市郎に伴われて血洗島に向かいました。
この日は、栄一が暴漢に襲われるという事件が出来しましたが、おそらく篤二たちが出発した後のことでしょうから、篤二たちは、事件を知ったのは後日のことでしょう。しかし、歌子にとっては「一難去ってまた一難」ということでしょうか。そのためか、「穂積歌子日記」は、明治25年12月20日をもって中断されているそうです。
日記の記述がないため、篤二が血洗島でどう過ごしていたかについて明確に記録されたものはないようです。
しかし、血洗島に着いて、中の家(なかんち)で暮らすことになった篤二は、おそらく多忙で子供の面倒を見る暇のない父栄一、篤二の教育を任せられた責任感から厳しく指導する歌子・陳重夫妻から解放されてホッとした気持ちもあったことだろうと思います。
さらに叔母ていは「青天を衝け」で藤野涼子が演じるようにざっくばらんな性格だったようで、そのていによって大いに気持ちも穏やかなものになったことと思います。
しかし、そうした篤二のホッとした穏やかな生活も長く続きませんでした。
深谷駅は、明治16年に開業しているので、明治25年には、上野から深谷に行くには一日で着いたと思いますので、12月11日に東京を発った篤二たちは、その日のうちに血洗島に到着したと思います。
篤二到着から10日後の12月21日に、中の家(なかんち)が火事で燃えてしまいました。
「徳川慶喜最後の寵臣 渋沢栄一 そしてその一族」(渋沢華子著)によれば、渋沢市郎は、明治20年に中の家(なかんち)を建て替えました。これは、藍玉生産から養蚕に主力に移すため、2階全てを蚕室にするためだったようです。
この渋沢市郎が新築した中の家(なかんち)が12月21日に焼失してしまいました。原因は、蚕室からの出火だったと書いてあります。
そして、「そのころの歌子の日記がないから詳しい事情が解らないが、篤二は、翌26年1月に帰京している」(「徳川慶喜最後の寵臣 渋沢栄一 そしてその一族」より)ので、中の家(なかんち)に留まっていたのは、せいぜい1か月あまりということになります。
このことは篤二にとっても重大な事でした。
「渋沢家三代」(佐野眞一著)では次のように書かれています。
「『中ノ家』が焼失したことは、そこでの生活がはじまったばかりの篤二にとっても決定的な出来事だった。血洗島で長期静養し浩然の気をとり戻すはずだったのが、『中ノ家』の焼失により、再び東京の監視生活に戻らなければならなくなったからである。篤二は翌明26年 (1891)1月に帰京し、15歳のときから暮らしてきた牛込の穂積邸に戻った。」
こうして東京に戻った篤二は、「青天を衝け」で描かれていたように、2年後の明治28年4月に、橋本実梁(さねやな)の娘敦子と結婚しました。敦子の父橋本実梁(さねやな)は、戊辰戦争の時、有栖川宮東征大総督に従い、東海道鎮撫総督に任ぜられました。江戸城開城の際には、真っ先に入城しました。
橋本家の屋敷と穂積家は、道を一本隔てた筋向いにあり、日頃からお付き合いがあったことが、二人の結婚のきっかけだったようです。
※橋本家の屋敷は、参謀本部陸軍部測量局が作成した「五千分一東京図測量原図」の「牛込区神楽町近傍」の中の市ヶ谷砂土原町三丁目にはっきりと記載されています。ただし、この地図は明治17年頃の地図ですので、穂積家は確認できません。
結婚した篤二は、栄一が兜町に移ったあとの深川福住町の屋敷で新家庭を始めました。
ところで、明治25年12月に焼失した中の家(なかんち)ですが、渋沢市郎・てい夫妻は、その悲劇にもめげず、中の家(なかんち)の再建に取り組み、明治28年には、新しい中の家(なかんち)を新築しています。その建物が、現在に残る中の家(なかんち)です。(下写真)


