栄一、暴漢に襲撃される(「青天を衝け」211)
「青天を衝け」で、馬車に乗っていた栄一が暴漢に襲撃される事件が描かれていました。前回、書いたように、この事件も穂積歌子はじめ渋沢家を震撼させた事件です。そこで今日は、この事件について書いていきます。
明治25年12月11日、栄一は、馬車で伊達宗城の病気見舞いに向かった際に、暴漢に襲撃されました。
栄一は、11日午後、伊達宗城の病気を見舞おうとして、兜町の邸宅から一頭曳の箱馬車に乗って兜橋を通過しました。※兜橋は、兜神社(下写真)の西側にあった楓川に架かっていた橋ですが、楓川が埋め立てられた際に廃止され、現在は兜橋はありません。

兜橋を通過している際に、橋の左右両側で暴漢が待ち伏せし、一人が馬の前脚に斬付け、又一人は馭者を目掛けて一刀斬付ました。その後、暴漢たちは、馬車に襲いかかり、暴漢が斬りつけたうちの一刀が新聞紙を読んでいる栄一の眼の前に閃(ひらめ)きましたが、栄一は身体を後に引いて刃をかわしました。
これ以前、栄一の身辺を付け狙う人物がいると馭者(ぎょしゃ:馬車の前部に乗って馬を走らせる人)から注意があり、警視庁からも注意喚起があったことから、近くの警察署から平服の護衛巡査が随いて密かに警備していたため、巡査が異変に気がつき直ちにその場に駈け付け、暴漢に打ちかかりました。この間に、馭者は前脚に重傷を負った馬に一鞭を加え、駿河町の三越呉服店(現在の日本橋三越本店)まで駈け抜けて、ここでしばらく休息した後、無事に兜町の邸宅に帰りました。栄一は、ガラス片によるかすり傷程度で済みました。
栄一が暴漢に襲われたことについて、デジタル版「実験論語処世談」の「壮士二名抜刀にて現る」で栄一自身が次のように語っています。
「明治25年の11月頃だったように記憶するが、伊達宗城伯が病気であらせられたので御見舞に出かけようと思い、午後3時頃、まだ自働車のない時代だったから自用の二頭立馬車を駆って兜町の事務所を出で、直ぐ前の兜橋を渡り江戸橋の通りと四日市町の通りとの交叉点の処へ来懸(きかか)ると、突然物陰から二人の暴漢が抜刀で現れ、馬車馬の足を払った事がある。私は何だか馬車が一寸たちどまったように思ったのみで、刺客に襲われたなぞとも心付かなかった中に、馭者が馬に鞭を当てて極力走らしたものだから、一頭は毫(ごう)も傷を受けず、傷つけられた一頭もまたよく一緒に走ったので、難なくその場を脱し、一まず駿河町の三越呉服店―当時まだ越後屋と称しておった店舗にはいり、休息する事にしたのだ。(後略)」
続いて、「原因は水道鉄管事件」というタイトルで次のように語っています。
「私は当時越後屋と称した駿河町の三越呉服店で、馬車から降りたが途中に起った椿事(ちんじ)については何事も談(かた)らず、ただ伊達伯の病気見舞いに出かけるところだが、一寸仔細(しさい)あって休息さしてもらいたい、とだけ申し述べて店内に入り休憩したのだが、越後屋でも唐突の事なので、何事が起ったのかと驚いているうち、どこからともなく途中の椿事(ちんじ)が伝わって続々見舞の人が越後屋に押し寄せて来たので、同店でも始めてそれと知ったほどである。さてその日は伊達伯への見舞いも見合せ、愈々(いよいよ)帰ろうという段になると、帰途も危険だから是非護衛しようというものもあったが、刺客にして真に私を斬り殺そうという意ならば、直(すぐ)に私へ斬って懸るべき筈のもので、馬の足を払う如き廻(まわ)りクドイ手段を取ろうはずなく、また同勢二人抜身を手にしておりながら、何の抵抗もせずムザムザ一人の護衛巡査ぐらゐに捕縛されてしまうわけも無く、察するに壮士がいくらかの金銭を与えられて、渋沢は怪しからん奴だから斬ってしまえとか何んとか煽動され、貰った金銭の手前放置ってもおけず馬車馬の足を払ったに過ぎぬのだから、帰途に又危険なぞのあるべき筈はないと、いろいろ親切に言うてくれた人々の好意を強(し)いて謝し、護衛なぞつけずに帰宅したのだが、果して私の考えた通り何事もなく無事で宅まで帰ったのである。(中略)
この二人の暴漢は、共に当時の所謂(いわゆる)壮士で、石川県人千木喜十郎・板倉達吉の両人であったが、当時喧(かまび)しかった東京市水道鉄管事件に関し、私が外国製の使用を主張せるに対し、内国でこれを製造し納入しようと企てた者があって、その後聞知せるところによれば、この一派の人々は恰(あたか)も私が外国商人よりコムミツシヨンでも取って、外国製の使用を主張するかの如く言い触らし、渋沢は売国奴であるからヤツツケロというような過激の言を以て、千木・板倉の二人を煽動し、三十円づつを与えたとかで、その金銭の手前、二人は人嚇(おど)かしをしたものなそうである。」
この事件の背景について栄一が語った部分は、「青天を衝け」で栄一が渋沢喜作に語っていたことに反映されています。
ところで、後年、栄一は、襲撃した暴漢のうち一人千木喜十郎が刑に服して出所した後、生活に困ったとの話を聞いて100円を援助しています。さらに、千木喜十郎が商売を始めるにあたって、さらに100円の出資をし、そのお礼にきた千木喜十郎と親しく会って激励しています。
以下、デジタル版『渋沢栄一伝記資料』収録の「竜門雑誌 第157号(明治34年6月)の「青淵先生昔の刺客を哀む」から引用させてもらいます。
「(前略)当時石川県の千木喜十郎という者、また世評の渦に巻かれて大いに先生を憎み、ついに25年12月11日夕、兜橋西詰において先生を暗殺せんとし、たちまち捕縛せられて謀殺未遂罪に問われ、重懲役十年に処せられしに、その後宮中御大葬の節、恩典を以て刑一等を減ぜられ、一昨年九月満期となりて巣鴨監獄を出でしが、同年9月23日石川県人大垣丈夫氏先生を尋ね、千木の全く改心せること、ならびにその現状の哀むべきことを告げられたる際、先生は昔日の仇(あだ)に酬(むく)ゆるに却(かえっ)て恩を以(もっ)てし、即時に金百円を与えられたるが、今回又同県人の保護にて広告取次業を始むることとなりしに、先生には今回もまた同人が平素親孝行の事と、入獄中極めて謹慎しおりしことと、出獄後も行状を正しくしてついに職業に従事するに至りし由を聞き、再び金百円を贈りてその資本を助け、さる日千木が謝意を表するため大垣丈夫氏とともに先生の邸に赴きし節には、先生自らこれを客室に引見して将来の方針につき懇々(こんこん)説く処あり、千木は涙を垂れてこれを聴き、深くその恩誼(おんぎ)に感じ入りたりという」
渋沢栄一は、自分を襲撃した人物を許したうえさらに援助までしているんですね。なんて心の広い人物なんだろうと感心するエピソードです。
この「渋沢栄一襲われる!」との報を受けて、兜町の渋沢邸には見舞客が大勢やってきました。その人たちの名前をみると如何に栄一がすごいかがわかるので、主な人たちを列挙してみます。
伊藤博文、井上馨、後藤象二郎、山県有朋(第2次伊藤内閣の大臣)
徳川昭武・益田孝・大倉喜八郎・前島密(昔からの栄一の仲間たち)
三井八郎右衛門・三井八郎次郎・三井高保・中上川彦次郎(三井財閥首脳)
岩崎弥之助・岩崎久弥・川田小一郎・荘田平五郎(三菱首脳)
これを見ると、当時の伊藤博文内閣の各大臣、そして、昔からの仲間たち、さらに三井財閥首脳、さらに三菱の首脳が見舞いに来邸しています。中には参謀本部次長の川上操六までお見舞いに来ています。

