大内くに、渋沢家を去る(「青天を衝け」212)
「青天を衝け」第38回で、大内くにが渋沢邸を去っていく場面がありました。
大内くには、既に皆様御存知の通り、栄一の妾です。大内くにについて書いたものを探しましたが、それはあまりありませんでした。その中で、「穂積歌子日記 1890-1906―明治一法学者の周辺」(以下「穂積歌子日記」と略称します。下写真)の中で、編者の穂積重行がかなり詳しく書いていますので、それに基づいて書いてみます。

まず、大内くにの出自について書いてみます。
穂積重行によると、「大内くには、京都付近に生れて、宮中女官の下女中にあたる女嬬(にょじょ)となり、主人は最高級の女官である高倉寿子(高倉典侍、後に正式の女房名としては「新樹典侍」)であった」ことだけがわかっているそうです。
高倉寿子は、明治天皇の皇后一条美子(のちの昭憲皇太后)の輔導役として皇后の生家一条家から官中に入り、のちに女官長となり、大正3年の皇后崩御まで仕えた女性です。女嬬(にょじょ)とは、宮中に仕えた下級の女官で、御所内の掃除、灯油のことなどをつかさどりました。
くには明治元年には16歳であったそうです。
明治2年に明治天皇・皇后が東京に住むことになり、高倉寿子も東京に移っていますので、大内くにも高倉寿子とともに東京に移っていたことになります。
「青天を衝け」では、栄一は、明治4年に大阪で大内くにと知り合った設定とになっていて、穂積重行の説とは少し違うような気がしますが、どちらが正しいかは不明です。
大内くには、栄一との間に、明治4年に「ふみ」、明治6年に「てる」の二人の娘を授かっています。
この二人は、それぞれ、栄一の甥に嫁いでいます。すなわち、「ふみ」は「青天を衝け」でも紹介されていたように尾高惇忠の次男尾高次郎に嫁いでいます。尾高次郎は、第一国立銀行に勤め、名古屋,釜山,仁川などの支店長をへて監査役となったあと、東洋生命社長,武州銀行(現埼玉りそな銀行)頭取などもつとめました。なお、「青天を衝け」のテーマ曲の指揮をしている尾高忠明は、尾高次郎の孫です。
また「てる」は大川平三郎に嫁いでいます。大川平三郎は、尾高千代の姉の子供として生まれ、成長後、王子製紙に入り専務まで進んだ後、王子製紙を退社し、各地の製糸会社の設立・発展につくし「日本の製紙王」と呼ばれました。
このように二人の娘もいる大内くにがなぜ渋沢家を去ることになったのでしょうか?「青天を衝け」では、大内くにから申し出たように描かれていましたが、「穂積歌子日記」では、栄一の意向だったと次のように書かれています。
「さて問題は『おくにさん』である。芝崎の日記、20年12月6日の項に、『大内女子結納先方持チ越シニ付宅ニテ受取申候』とある。本文で述べた通り、栄一は15年7月に千代を失い、18年の秋から暮までの間に伊藤かね子と再婚するが、この時かね子はすでに妊娠していた(武之助、19年2月生)。この時期栄一が公的な将来計画をも含めて身辺整理を行なったことは、兜町邸新築・穂積宅の独立と篤二のこれへの依託・琴子の結婚、これに続く『家法』の制定等からうかがいうるのだが、30代の半ばに達している『くに』の身の振り方もその一つであった。」
また、「青天を衝け」では、渋沢家を去った大内くにがどうしたかもはっきり描かれていません。しかし、「穂積歌子日記」によれば、織田完之(かんし)という人と再婚しています。
織田完之は、三河生まれで、幕末には、尊攘派の志士として活動し、明治になって新政府に出仕し、内務省・農商務省に勤める官僚でした。織田完之は、妻を亡くしていたため、大内くにとの話が進んだようです。
穂積重行によると織田完之と大内くにとの結婚はうまくいき、のちに織田完之は穂積家の隣に引越して来て親しくつきあったそうです。
織田家と穂積家が親しくつきあっていたということとなれば、歌子と「くに」も仲良く付き合っていたと思われます。
現代の私たちから考えると、「くに」は父の妾であり、歌子が仲良く付き合えるのかと不思議に思いますが、それについて、興味深い解説を穂積重行がしていますので、その部分を引用させていだきます。
「歌子としては、敬愛追慕してやまない亡母千代のことを思えば、『くに』に対してなんらかのわだかまりを示したとしても不思議はないはずなのだが、そのような気配はまったく見られない。以下はすべて推測であるが、栄一が彼女を家に入れた時、歌子はまだほんの子供であったし、女中も大勢おり人の出入りも激しい屋敷のことであるから、格別異様な思いもしなかったのかもしれないし、千代も当時における『妻の嗜(たしな)み』としてきわめて寛容な立場をとり、歌子がやや成人してからも、これを『妾』として云々することもなかったのであろう。要するに娘時代の歌子にとって、『子供の時から家にいる人』といった感じが自然に先行していたと思われる。
『くに』もまた持ち前の人のよさと表裏をなす一種の賢明さといおうか、千代の死後も『場合によっては後添に』といったようなことは考えもしなかったようであり、十歳は年下の歌子をむしろ頼りにして、栄一が再婚し歌子が一人前の妻として成長するにつれ、その子分であるかのような気でいたらしい。仕立物が得意なので、裁縫の苦手の歌子はなにかと心安く頼みごとをしているし、いっしょに芝居に行ったり、用事を手伝ってもらったり、時には代理に立てたりしている。」
歌子と「くに」は、千代が生きている頃から、仲良しだったようですね。
明治時代の初期には、妾が法的にも公認されていたという事情もありますので、そうした時代背景も影響していたのでしょう。
大内くにについては、「穂積歌子日記 1890-1906―明治一法学者の周辺」p287~291に詳しく書いてありますので、ご興味のある方は、お読みください。