徳川慶喜、東京に帰る(「青天を衝け」213)
「青天を衝け」第38回で、徳川慶喜が東京に帰ってきた場面がありました。
慶喜が東京へ移住したのは、明治30年11月19日です。明治30年11月16日に静岡を発ち、19日に千駄ケ谷の徳川宗家の屋敷に一旦入ったあと,巣鴨の屋敷に入っています。
徳川慶喜が駿府に入り、宝台院で蟄居謹慎したのが明治元年7月23日です。明治2年9月28日に謹慎が解除され紺屋町の元代官屋敷に住み、その後、明治21年3月に西草深町に転居しました。元代官屋敷近くを東海道線が通ることから、それを嫌って転居したといわれます。
静岡に移ってから30年ぶりに東京へ帰ることができた慶喜ですが、その理由を「昔夢会筆記」の中で下記のように語っていますが、それによれば、静岡には良い医者がいないというのが、明治30年の上京の理由となっています。
「静岡御残留の事ならびに東京御移住の事
(問)明治4年廃藩置県により、旧知事家達公は静岡より東京に御移住ありしも、公はなお紺屋町の御邸に留まらせられ、30年に至りてはじめて御出京あらせられ候。これには何か御事情これあり候や。
(慶喜回答)勝が静岡に留まる方よろしからんといえるによる。勝はこの事を西鄕隆盛に談じたるに、西鄕は『静岡に在すとも差し支えなかるべし。朝廷の方は某(それがし)よしなに執り成すべく、御出京の時機も追って某(それがし)より告げ知らすべければ、それまでは今のままにて在すべし』と当(こた)えたりとぞ
予は初め静岡を終焉の地とせんの決心なりしも、同地は良医に乏しければ、追々老境に入るにしたがい、万一の事あらば困難ならん、東京より日返りに医師の来り得るところに移らんこそよけれとて、詮議のすえ遂に出京することとなれるなり。その頃は勝もなお生存せり。」
これによると、明治4年の廃藩置県の際に徳川家達は上京してもよいが、徳川慶喜は静岡に留まっていたほうがよいと勝海舟が言ったため、静岡に留まっていたようです。
また、慶喜はしきりに上京したいと考えていたものの、勝海舟が静岡に留まっているように言っていたと「海舟座談」の中に書いてあります。
「今日まで、私が突張って置たから、こうなったのだが、もう好い加減機会の時にせぬと機会が去ってしまうから、今度は、好かろうッて、そう言ったのサ。どうして、慶喜公は、早くから、出たくて、ならないのだからネ。」
明治30年近くになって、ようやく時機が熟したということだったのでしょう。
このように、徳川慶喜を静岡に留めおいた勝海舟に対して、徳川慶喜を慕う栄一はこころよく思いませんでした。
デジタル版「実験論語処世談」の「13. 勝海舟とは同腹に非(あら)ず」の中で次のように語っています。
「そんなら私の精神は勝海舟伯と全く同一であったかといえば、そうでもない。私は、勝伯があまり慶喜公を押し込めるようにせられておったのに対し快く思はなかったもので、伯とは生前頻繁に往来しなかった。勝伯が慶喜公を静岡に御住まわせ申して置いたのは、維新に際し将軍家が大政を返上し、前後の始末がうまく運ばれたのが一(ひとえ)に勝伯の力に帰せられてあるところを、慶喜公が東京御住いになって、大政奉還前後における慶喜公御深慮のほどを御談(しゃべ)りにでもなれば、伯の金箔が剥げてしまうのを恐れたからだ、などというものもあるが、まさか勝ともあろう御人がそんな卑しい考えを持たれよう筈がない。ただ慶喜公の晩年に傷を御つけさせ申したくないとの一念から、静岡に閑居を願つて置いたものだろうと私は思うが、それにしても余り押し込め主義だったので、私は勝伯に対し快く思って居なかったのである。」
栄一も勝海舟も徳川慶喜を大事に思う気持ちは同じですが、微妙な違いもあるようです。
徳川慶喜が入った巣鴨の屋敷は、山手線巣鴨駅の近くにありました。現在、白山通沿いの歩道に「徳川慶喜巣鴨屋敷跡地」と刻まれた石柱と豊島区教育委員会の説明板が建てられています。(下写真)

以前、徳川慶喜の東京の屋敷について書いてありますので、ご興味がありましたら、ご覧ください。

