栄一、ルーズベルト大統領と会談する(「青天を衝け」214)
「青天を衝け」も残るところあと3回となりました。土曜日の「あさイチ」で脚本の大森美香さんが「あと3回になりましたが、凝縮した内容でお届けします」と言っていましたが、第39回は、本当に内容が凝縮されていたものだったと思いました。また、あと2回で描かれるであろう①栄一の民間外交、②篤二の廃嫡、③「徳川慶喜公伝」の編纂への伏線となっているようにも思いました。
さて、時代は明治30年代後半まで進みました。
本編の冒頭は、栄一がアメリカ大統領ルーズベルトに面会したという場面でした。そこで、今日はルーズベルト大統領との会談について書いてみます。
栄一は、明治35年5月から11月まで欧米への「漫遊旅行」に出かけました。
この旅行は、日本の商工業界の事情を欧米に知らせ意思疎通を図ることが目的でしたが、栄一は、「これといって特殊の目的があったわけではない」と言っていますし、「漫遊旅行」と栄一自身が言っていることから、私的な旅行の側面が強かったものと思います。そのため、兼子夫人を同伴していますし、随行者は、市原盛宏(第一銀行横浜支店長)、萩原源太郎(東京商議所書記長)、渋沢元治(栄一の甥)、梅浦精一(石川島造船所専務取締役)清水泰吉(第一銀行文書課長)、八十島親徳(栄一の秘書役)という小人数でした。
5月15日に横浜を出発し、まずアメリカに渡り約1か月滞在した後、イギリスに渡りドイツ、フランス、イタリアも訪問した後、インド洋経由で10月31日に横浜に帰ってきました。5か月半にわたる海外旅行でした。
この旅行の途中、アメリカのルーズベルト大統領に面会しています。
実は、ルーズベルトというアメリカ大統領は二人います。栄一が面会したルーズベルト大統領は、第26代大統領のセオドア・ルーズベルトで、明治34年から明治42年まで大統領でした。大統領就任中に勃発した日露戦争において、ロシアの満州進出を押さえるため、日本に対し財政面をはじめさまざまなかたちで援助を行い、日露両国に講和を働きかけ、ポーツマス条約成立に大きな役割を果たしました。
ちなみに、もう一人のルーズベルト大統領は、第32代フランクリン・ルーズベルトです。世界恐慌後の「ニューディール政策」や第2次世界大戦の遂行などで知られています。
栄一がセオドア・ルーズベルト大統領と会談したのは明治35年6月13日でした。
ルーズベルト大統領との会談は、ホワイトハウスの書斎で行われました。
二人の会談は、ルーズベルト大統領が、日本の美術が優れているし、日清戦争において日本軍が勇猛なことをわが軍の将校から聞いており、ヨーロッパ各国同様賞賛していると述べたのに対して、栄一は「我国の美術および軍事に関し、閣下より賞賛の辞を聞くは実に満足の至りに堪えず、しかし余は現に実業に従事するものなるが、我国の商工業はその美術・軍事等に比すればその名声極めて寂々たるの感あり、故に余は今後益々奮励して商工業の発達に勉め、他日再び閣下に拝謁するときは閣下より我国の商業に関し更に同一の賛辞を辱ふせんことを期す」と答え、これを聞いたルーズベルト大統領は、「今後渋沢栄一がますます商工業の発達に努力すれば、必ず結果が出ると私は確信している」と答えたとデジタル版『渋沢栄一伝記資料』収録の「竜門雑誌第170号(明治35年7月)」に書かれています。
「青天を衝け」での二人の会談内容は史実に則っているということになります。
栄一の明治35年の欧米旅行は、前述の通り、個人的な旅行でした。このように政府の正式な使節でもない人物にアメリカ大統領が面会するというのは異例中の異例のことと言われています。「青天を衝け」で穂積陳重が語っていた通りです。
それだけ、アメリカでも渋沢栄一という人物が重要人物であると認識されていた証しだと思います。
「青天を衝け」では描かれていませんでしたが、栄一の重要人物ぶりを示すエピソードをもう一つ紹介します。
栄一が横浜を出発したのは、明治35年5月15日ですが、その出発の際に見送りした人々の多さに驚かされます。
栄一の日記によれば、当日、午前6時に起床し入浴し、朝飧後、7時王子別荘を出発した兜町の事務所に寄った後、9時25分新橋停車場発の汽車で横浜に向い、横浜港から12時20分に出航しています。
出発に際して、新橋駅へ見送りに来た人たちのうち主な人を当時の新聞報道から拾ってみると次のようになります。
⑴桂太郎総理(代理)・小村寿太郎外務大臣・清浦奎吾司法大臣・曾禰荒助大蔵大臣・芳川顯正逓信大臣・平田東助農商務大臣、千家尊福東京府知事・松田秀雄東京市長などの政治家、
⑵徳川家達公爵・板垣退助伯爵・徳川厚男爵などの華族
⑶山本達雄日本銀行総裁・曾我祐準(すけのり)日本鉄道会社長・近藤廉平郵船会社長・高橋新吉勧業銀行総裁・添田寿一興業銀行総裁などの財界人・
⑷渋沢喜作・大倉喜八郎・益田孝・佐々木勇之助・浅野総一郎・安田善次郎・荘田平五郎・豊川良平・馬越恭平など栄一と親しい人々
東京日日新聞には、「(新橋駅で見送りをした人は)千三・四百名にして、プラツトホームはほとんど立錐(りっすい)の余地なく、停車場の広場もまた見送人の馬車・人力車数百台を以て塡充(てんじゅう:隙間を埋めること)せり。」と書いてあります。
また、横浜港では、人数は減ったものの、新橋駅と同じように大勢が見送っています。
この時の内閣は、桂太郎が総理大臣の第一次桂内閣でしたが、10人の大臣のうち5人の大臣が見送りに来ていますので、この日の閣議は中止か午後開催だったのでしょう。
この欧米旅行で、栄一はドイツ・フランスも訪問しています。
そして、栄一が徳川昭武に随従してパリに渡航した際にお世話になったひとたちに久しぶりに面会しています。ドイツでは、パリ渡航時の通訳であったシーボルト、フランスでは、徳川昭武の家庭教師であったビレット大佐(当時)にあっています。
ビレット大佐(当時)は、パリ近郊のベルサイユに住んでいたようで、栄一はベルサイユまで出かけています。デジタル版『渋沢栄一伝記資料』収録の「栄一日記」に次のように書かれていますので引用させていただきます。
「9月10日 午前10時林忠正・井上金次郎二氏誘引して一行ベルサイユに抵(いた)る。11時同地停車場に抵(いた)れば、ゼネラルビレツト氏来り迎う。蓋(けだ)し氏は、36年前、余、民部大輔に随従してこの地来遊の際、当時の帝王ナポレオン三世の命を以(もっ)て、民部大輔の付人として百事の世話を為したる人なり。今やその齢80歳なりというも、なお健全にして余等をその家に迎えて歓待頗(すこぶ)る懇篤(こんとく)なり。その家に抵(いた)れば家人相集りて往時を話し、午飧(ごそん:昼ご飯)を饗す。おわってベルサイユ宮殿を一覧し、更に大小トリヤノ宮を参観し、午後6時過パリ旅宿に帰る。」
ビレット大佐(当時)は80歳になりますが、大変元気で、駅まで出迎えに来てくれていました。ビレット大佐(当時)の家に行き、家族も集まって昔話に花をさかせ、お昼ご飯をいただいています。栄一は、ビレット大佐(当時)と30年以上前の昔話で大いに盛り上がったことでしょう。