栄一、大病を患う。(「青天を衝け」215)
栄一は、「青天を衝け」第39回で描かれたように明治36年11月から明治37年6月にかけて大病を患います。
栄一がインフルエンザに感染したことが判明したのは、明治36年11月21日のことです。20日の夜から風邪気味でした。そこで、一旦は兜町の事務所に出かけましたが、直ぐに飛鳥山邸に戻り、医師の往診をお願いしました。体温が38~9度の間を昇降し、インフルエンザに喘息をも併発しているということで静養していましたが、24日夜半より左耳の内部に痛みを訴えたので、医師の診察を受けた結果、インフルエンザから中耳炎を発症したものとのことで、痛みが激しく、体温38~9度の間で、下がる気配がないため、12月1日に鼓膜を切解しました。その結果、翌日から痛みがなくなり、体温も下がってきました。
翌37年1月に、医師の勧めにより、国府津で転地療養を行うことになり、4月まで、国府津で過ごした結果、健康を回復してきました。
そこで、4月24日、国府津から帰ってきました。
しかし、4月27日になって、急に発熱し、28日には、体温が38度を超えるようになり、肺炎と判断されました。
そこで、高木兼寛を主治医とし、ベルツ博士にも往診をお願いし、土屋良蔵・堀井宗一が、常に傍に詰めて病状を看ていました。
穂積歌子日記には次のように書かれています。
「5月1日(日) 終日雨昨日と変り又冷気なり。(父を見舞いに行く。)ベルツ氏の見立も高木(兼寛)氏同様クルップ性の肺炎にて先づ軽症なれども御全癒は随分長かるべしとの事、誠に誠に困りし事なり。」
栄一の容態は、体温が上がった下がったを繰り返し、安定しない日々が続き、 時には血痰を吐いたこともあり、篤二や歌子を驚かしたようです。
穂積歌子日記にそのことが書かれています。
「5月18日(水) 午前篤二君より電話、大人(栄一のこと)御容態今朝5時鮮血の交りたる痰を吐き給いしを御本人には隠したれども、御苦悶のため御神経高まり銀行の将来につき御申聞の事ありし由。(中略)2時過より出かけ王子邸に行く。…ベルツ・高木両先生6時頃来られ共に診察せらる。血痰出でしは勿論あしき症状なれども素人の思う程危険の容態というにはあらず。元より御大患なれども未だ危険の症におち入り給いしにはあらずとの見立てなり。皆々ひとまず愁眉(しゅうび)を開く。」
栄一が血痰を吐いた後、神経が高まったためか、第一銀行の将来について申し置いたことがあったと篤二から電話があったと記録されています。
「青天を衝け」で、栄一が佐々木勇之介と篤二を枕元に呼んで、後事を託す場面がありましたが、穂積歌子日記を読むと、それに近いことがあったように思われます。
しかし、ベルツ・高木両医師の診断では、生命にかかわる状態ではないとのことで、みんな安堵したと書いてある通り、この後、栄一の容態も少しづつ快方に向いました。
とはいいながら、栄一の体調回復に時間がかかったため、栄一の病気のことが明治天皇の耳に届き、6月9日に、天皇より御菓子を賜はりました。
この時、栄一の体調も大分回復し、寝床の上に起き直って「礼服を取寄せて恭(うやうや)しく天恩を拝謝し、暫時感涙に咽(むせ)ばれた」(「竜門雑誌第193号」より)そうです。
それ以降は、栄一の体調は薄皮がはがれるように回復していきました。8月11日には、転地療養として箱根芦之湯松阪屋に行き夏を過ごし、9月3日帰京し、9月27日に宮内省ヘ病気全快の御礼を言上しています。
ところで、皇室からのお見舞いのお菓子は「四角な寒天の中に羊羹で出来た奇麗な金魚が二匹浮んでいた」ものだったようです。渋沢敬三が「祖父のうしろ姿」の中で次のように語っています。
「(渋沢栄一が)突如中耳炎を病み重態に陥ったことがありました。その趣き畏(おそれおおく)も天聴に達し、辱(かしこく)くも御見舞を賜りましたがその御菓子の中に金玉糖があって、四角な寒天の中に羊羹で出来た奇麗な金魚が二匹浮んでいたのは、子供心にもはっきりと今でも眼に残っております。」

