栄一、「徳川慶喜公伝」編纂を企画する(「青天を衝け」217)
「青天を衝け」第39回でいよいよ「徳川慶喜公伝」の編纂が始まりました。
「青天を衝け」での展開は、明治40年頃の話として進んでいます。
しかし、栄一が「徳川慶喜公伝」を書こうと考えたのはもっと昔のことです。
栄一は、「徳川慶喜公伝」の「自序」で、「徳川慶喜公伝」編纂の目的や経緯を詳しく書いています。この「自序」は序文としてはいくらか長くなりますが、「徳川慶喜公伝」編纂について詳しく知りたい方は「自序」を読まれるといいと思います。(下写真は東洋文庫版の「徳川慶喜公伝1」です。)
さて、今日は「自序」に基づいて、「徳川慶喜公伝」編纂のきっかけについて書いてみます。

「自序」によると、栄一は維新期の徳川慶喜の行動に大変疑問を抱いていたそうです。そのため、栄一は、「自序」の中で、徳川慶喜の維新期の行動についての疑問を繰り返し述べています。
それを私なりにまとめると次の四つの疑問になります。
⑴徳川慶喜が政権を返上したのはどのような考えであったのか
⑵朝廷に政権を返上したにもかかわらず、鳥羽・伏見において戦端を開いたのはなぜか
⑶覚悟の上、戦端を開いたのであれば、突然大坂から軍艦で江戸に戻るような行動を取ったのはなぜか
⑷新政府軍が、東征のため江戸に向かってくると、恭順謹慎の態度に転じ、これを貫いたのはなぜか
これらの疑問を解き明かそうとして、栄一は、慶喜を知る人々に尋ねたり、史料を調べました。そうして、ようやく、その答えが見えてきたのは明治20年以後のことでした。そして、栄一なりの答えが解り、維新期の徳川慶喜の行動が理解できるようになると、徳川慶喜の真意が正しく伝わっていないと感じるようになりました。
そこで、維新期の徳川慶喜の本当の姿あるいは真意を正しく後世に伝えたいと考えるようになり、明治26年の夏から秋の頃、旧幕臣の福地源一郎に相談をしました。これに対して福地源一郎も賛同し、「徳川慶喜公伝」の編纂主任になることを承諾しました。
そこで、栄一は、徳川慶喜の許可を得ようとして、慶喜に親しく仕えていた平岡準蔵と通じてお願いしました。しかし、徳川慶喜の承諾は得られませんでした。そこで再度お願いした結果、徳川慶喜が亡くなった後相当の期間を経たのちに公表することを条件として許可を得ました。
「青天を衝け」では、栄一自らが徳川慶喜にお願いをするという展開でしたので、「自序」の中で栄一が述べていることを引用しておきます。
「平岡(準蔵)氏が常に公(徳川慶喜のこと:以下同じ)に昵近(じっきん:なれ親しんでいる)している事を知っていたので、同氏に逢って詳細に御伝記編纂の意見を述べ、是非とも御許諾を得たいと思うが、君は如何に考えるかと問うと平岡氏は非常に喜んで、それは誠に親切な事だ。どうぞ好都合に成就したいものである、福地氏は立派な文学者と聞いており、公にも全く知らせられぬ人でもないから至極適当の人と思う。ただし公の御同意の有無は測り難いが、ともかくも申上げて見ようと答えた。その後平岡氏が静岡から帰っての話に公は御許諾がない。どうぞやめてくれと仰(おう)せられた。なぜにさように御厭(いと)いなされますかと問うと、世間に知れるのが好ましくないとの事であったという。よってさらに平岡氏と相談の上必ず世間には知れぬように、深く私の筐底(きょうてい:箱の中)に納めて置きます。私どもはもとより公の千年の御寿命を望むけれども、人生自古誰無死(※)であるから、御死後において発表するものとしたならば、御厭(いと)いなくもと思われます。今の間に存在する史実を集めて、せめては記料(記録と資料との意味か?)にても遺(のこ)しておかねば、ついに真相を失って、後世に誤謬を伝える事と存じます。つまり私の期待する所は、現世にあらずして百年の後にあるからと、再応平岡氏をもって伺うと、それ程の熱望ならば承諾はするが、世間に公にするのは、死後相当の時期においてという事であった。」※人生自古誰無死(人生、古より、誰か死なからん)⇒人は古より一人として死せざるものなし
こうして徳川慶喜の許可を得たため、明治34年深川福住町に事務所を設けて、編纂を開始しました。
しかし、福地源一郎が明治37年に政界に進出し代議士となり多忙を極めたため、なかなか編纂が進捗しませんでした。しかも明治39年1月に福地源一郎は病気のため62歳で亡くなったため、中断せざるをえなくなりました。
福地源一郎の死去により「徳川慶喜公伝」編纂が中断せざるえなくなったため、栄一は、娘たちの夫である穂積陳重・阪谷芳郎にも相談し、穂積陳重から東京帝国大学教授の三上参次に相談して、萩野由之博士に編纂主任を依頼する事になりました。そして、御伝記編纂所を兜町の事務所に設けて、数名の編纂員を置いて新に編纂事務に着手しました。それは明治40年6月でした。これにより、「徳川慶喜公伝」編纂事業が再開されたのでした。
「青天を衝け」で描かれていたのは、これ以降のことと思われますが、長くなりますので、今日はここら辺で止めておきます。

