慶喜、鳥羽伏見の戦いについて語る(「青天を衝け」219)
今日は、徳川慶喜が、「昔夢会」で鳥羽伏見の戦いについて、どのように語っているか書いていきます。

徳川慶喜の語りは後述するとして、まず鳥羽伏見の戦いの経緯を書いておきます。
慶応3年12月9日、王政復古の大号令が発せられて、①徳川慶喜の将軍職辞職を勅許。②江戸幕府の廃止、③摂政・関白の廃止と総裁、議定、参与の三職の設置が宣言されました。
そして、その日の夕刻開かれた小御所会議で、徳川慶喜は、内大臣の官位を辞して領地を朝廷に返上すべきこと(辞官納地)が決定されました。
そして、翌10日、松平春嶽と徳川慶勝が、朝廷の使者として慶喜のいる二条城へやってきて、内大臣も辞任し徳川家の領地のう200万石を朝廷へ返上するよう慶喜へ伝えました。これに対して、幕臣や会桑(会津藩・桑名藩)両藩は激高し、薩摩藩を討つべしという声が高まりました。そこで、慶喜は、両軍が衝突することを避けるため、12日夕刻に京都の二条城を出て13日に大坂城へ退去しました。しかし、大坂城内でも、幕臣たちの怒りは収まらず、却って高まるばかりでした。
一方、江戸では、12月23日、江戸城二の丸が火事になり、これは薩摩藩による放火だとすると噂が広まりました。さらに、12月25日には、幕府方の庄内藩等は江戸の薩摩藩邸を焼き討ちしました。この薩摩藩邸焼き討ちの報が12月28日に大坂城に届き、この連絡をうけた幕臣やたちからは「薩摩討つべし」の声がさらに高まりました。
そして、朝廷から御所への参内を命じられていた慶喜は、大勢の声に押されて、慶応4年元日に『討薩表』を作成し、2日約1万5千の軍勢の進軍を許しました。そして、3日に鳥羽まで進んだ旧幕府軍とそれを押しとどめた薩摩藩の軍勢との間に戦闘が開始され、鳥羽伏見の戦いが始りました。
この鳥羽伏見の戦いについて徳川慶喜は「昔夢会筆記」の中の「鳥羽伏見の変の事」の中で次のように語っています。
「予、既に大坂城に入り、物情の鎮静にカ(つと)めしも、上下の激昻は日々に甚(はなは)だしき折から、江戸にて市中警衛の任を負える庄内の兵と、薩藩の兵と争端を開きしかば、大坂城中上下の憤激は一層甚だしきに至れり。(中略)
さて大坂城中にては、上下暴発の勢ほとんど制し難く、松平豊前守(松平正質)のごときは、『令を出して、大坂を徘徊せる薩人一人を斬るごとに十五金を与えん』などと、無謀の議を出すに至りしも、予はこのごときは血気の小勇なりとて制止せり。」
慶喜は、大坂城に下っても幕臣・諸藩の怒りがすさまじい中、江戸での薩摩藩邸焼き討ちの報が伝わると城内の憤激がさらに高まったと語っています。
そうした状況のなかで、朝廷から入京を勧める話がやってきたので、慶喜は軽装で出かけようとしたが、会桑両藩・旗本は武装して入京すべきだと頑強に主張してやみませんでした。慶喜は次のように語っています。
「時に京都より、越前の中根雪江(師質)、尾州の某等四、五人下坂して、予の入京を勧めたれば、予もさらば軽装をもって入京せんと考えたりしかど、会桑両藩以下旗本の者等これを聴かず、『好機会なれば十分兵力を有して入京し、君側を清むべし』と主張し、老中以下大小目付に至るまで、ほとんど半狂乱の有様にて、もし予にして討薩を肯んぜずば、いかなることを仕出さんも知るべからず、何さま堅く決心の臍を固めおる気色なりき。」
「青天を衝け」で描かれていたように、この時、慶喜は風邪を引いていて寝込んでいました。
「この時、予は風邪にて、寝衣のまま蓐中(じゅくちゅう:ふとんの中)にありしに、伊賀守(板倉勝静のこと)来りて、将士の激昻大方ならず、このままにては済むまじければ、所詮帯兵上京の事なくては叶うまじき由を反復して説けり。」
風邪を引いて寝ていた慶喜のもとにやってきた板倉勝静に、慶喜は、「幕府に薩摩藩の西郷隆盛や大久保利通に匹敵する人物がいるか」と問うと板倉勝静は「そうした人物はいない」と答えます。それであれば、こちらから戦をしかけるなと言います。しかし、板倉勝静が言うには、慶喜が許可しなければ、慶喜を刺し殺すか脱走しかねない勢いであると反論してきたそうです。慶喜が次のように語っています。
「予、すなわち読みさしたる『孫子』を示して、「知彼知己百戦不殆(※彼を知り己を知れば百戦殆うからずの意味)」ということあり、試みに問わん、今幕府に西鄕吉之助に匹敵すべき人物ありやといえるに、伊賀守(板倉勝静)しばらく考えて、「無し」と答う。「さらば大久保一藏(利通)ほどの者ありや」と問うに、伊賀守(板倉勝静)また「無し」といえり。予、さらに吉井幸輔以下同藩の名ある者数人を挙げて、「この人々に拮抗し得る者ありや」と次々に尋ぬるに、伊賀守(板倉勝静)また有りということ能わざりき。因(よ)りて予は、『このごとぎ有様にては、戦うとも必勝期し難きのみならず、遂にはいたずらに朝敵の汚名を蒙るのみなれば、決して我より戦(いくさ)を挑むことなかれ』と制止したり。されども、板倉・永井等はしきりに将士激動の状を聞きて『公もしあくまでもその請を許し給わずば、畏(かしこ)けれども公を刺し奉りても脱走しかねまじぎ勢なり』という。」
板倉勝静や永井尚志から情勢を聞いていた慶喜は、幕臣・会桑両藩を抑えようと努力したものの抑えることができず嘆きます。さらに江戸の薩摩藩邸焼き討ち後は、一層、制御が難しくなり、鳥羽伏見の戦いの戦端を開くことになったと次のように語っています。
「予は、『よもや己を殺しはすまじきなれども、脱走せんはもちろんなるべし。さてはいよいよ国乱の基なり』とひたすら制馭のカの及ばざるを嘆ぜしが、江戸にて薩邸を討ちし後は、なおさら城中将士の激動制すべからず、遂に彼等は君側の姦を払う由を外国公使にも通告して入京の途に就き、かの烏羽・伏見の戦を開きたり。」
そして、最後に次のように強く悔悟しています。
「予は始終大坂城中を出でず、戎衣(じゅうい)をも著せず、ただ嘆息しおるのみなりき。この際の処置は、予ももとより宜を得たり(※)とは思わざりしも、今にていえばこそあれ、当時の有様にては実にせんすべも尽き果てて、形のごとき結果に立ち至りしなり。」※宜を得る=適当である。
初回の昔夢会では、こう述べていますが、明42年7月15日に開かれて第5回昔夢会では、「私は、不快で、その前から風邪を引いて臥せっていた。もういかぬというので、寝衣のままで始終いた。するなら勝手にしろというような少し考えもあった。」とも語っています。
このように見ると、「青天を衝け」で描かれて徳川慶喜の語っていたのは、ほぼ史実どおりだと感じます。

