栄一、古希を期に、実業界から引退(「青天を衝け」220)
「青天を衝け」もあと2回を残すのみとなりました。第40回は15分拡大版で、栄一の実業界からの引退、渡米実業団の話、篤二の廃嫡、「徳川慶喜公伝」の編纂と徳川慶喜の死、さらに親しくしていた伊藤博文・渋沢喜作・井上馨の死など印象深い場面が連続的に描かれていて、まさにクライマックスに突入です。
今週描かれていたことについては順に書いていきますが、まず最初は、冒頭に描かれていた栄一が実業界を引退することから書いてみます。
栄一が実業界を引退したのは、栄一自身が古希(70歳)を迎えた明治42年(1909)のことです。
この年、栄一は、①第一銀行頭取、②東京貯蓄銀行取締役会長、③銀行倶楽部委員長、④東京銀行集会所会長以外の実業団関係の役職をすべて辞任しました。
集まった人々に栄一が宣告する場面が「青天を衝け」で描かれていた通り、栄一は、明治42年6月6日に、栄一が関与していた会社の中で、第一銀行、東京貯蓄銀行以外で、とくに縁の深い会社の重役20名を兜町の事務所に招いて、役職を辞任する旨を通告しました。
この時、招かれた20名のうち主要な人物は次の人々です。
・京瓦斯株式会社専務取締役高松豊吉
・東京石川島造船所専務取締役梅浦精一
・日本煉瓦製造株式会社専務取締役諸井恒平
・大日本麦酒株式会社常務取締役植村澄三郎
・木曾興業株式会社取締役会長大川平三郎
・帝国劇場株式会社専務取締役西野恵之助
そして、この人たちに栄一は、大蔵省を退官した後に第一銀行を最初に多くの企業に関与してきた経緯を述べた後、次のように語っています。(デジタル版『渋沢栄一伝記資料』より)
「今日お集りの皆様の御関係の事業については、ほとんどおのれが首脳の位置に立って今日に至ったのであるが、熟々将来を考えて見ると、もう皆様で充分やれるのである。私をお引止めなさらぬでもよい。多少おったのがよいと思召すこともあるか知れませぬけれども、是非引止めなければならぬという程の必要もないであろう。そういつまでも各種の事業に関係するということは、もちろん好ましいことではない。ことに大勢も今申上げた通りであるとすれば、この辺をもって任を辞するというは最も適当であろう。こう考えまして、今日をもって第一に情合の厚い関係の深い皆様の各会社の任務を解いていただきたい。しかして任務を解いて戴くというには、唯一片の辞表をもって御免を蒙るということでは、別して交誼の厚い皆様に対しては不親切の行動に相成ることを恐れまするので、失礼ではありますが、今日お集りを願って私の衷情を申上げた訳でございます。」
この日のことを栄一は日記に次のよう書いています。
「明治42年6月6日 午前10時兜町事務所に抵(いた)り、諸関係会社の業務担当者を会して、すべてその職務辞退の事を懇話す、来会者中いろいろの論説ありしも、切にこれを慰諭し、一同とともに午飧(ごそん:昼食のこと)し、あとさらに談話を継続せしも、一同はなお各会社将来の事を懸念して止まざりき、午後3時散会」
栄一の日記を読んでも、突然の辞任の宣告に対して集まった人々から、自社の将来を心配していろいろな意見が出たと推測できますが、その席に同席していた秘書の八十島親徳は次のように、くわしく書いています。
まず、集まった人々は、突然の栄一の辞任の話に驚いてしばらく猶予下さいと申し出たようです。「青天を衝け」でもみんながびっくりする姿が描かれていましたが、実話のようです。
「いずれも突然の事にして来会者一同意外の感に打たれ答の出る所を知らず、結局近日会合篤(とく)と協議すべきにつき暫時猶予を乞いたき旨(梅浦氏代表)の申出あり」
みんなの猶予を下さいというお願いに対して、栄一は断固として決意を変える意思はないことを告げています。
「男爵(渋沢栄一のこと)は熟考の上堅く決意せしうえの事にてただ御懇意上熟談のため御来車を乞いし事なればこのうえ再考の余地はなし、中には困却を感ぜらるるむきもあらんかしと想像すれども一を棄てて一を採らんには到底断行しあたわず。御了察を乞う所以(ゆえん)なりとの明答あり、食後も如此(このようにの意味)問答の末、一同は男爵の真意はよく了解し三時頃退散」
参加者は、栄一の意思の堅さを認識し辞任を認めざるをえなかったようです。
この時、辞めた役職を「渋沢栄一92年の生涯 秋の巻」(白石喜太郎著)を参考に書き上げると後記の通りになります。

ところで、栄一は、500以上の会社に関与しました。なぜ、それほど多くの会社に関与するようになったか、それにはいろいろな理由が考えられると思いますが、辞任を宣告する際の説明の中にも、なぜ多方面に関与するようになったかが語られています。それを引用すると長くなるので、該当部分を引用するのはやめますが、栄一が多くの会社に関与したのは「日本の現在の経済界は、新開地に一軒家のお店ができたようなものであり、荒物だけを売るとか、呉服だけを売るとか、というふうに分業的に商売をできるものではない。なんでも売る万屋(よろずや)が必要である。だから、やむえず万屋をするのだ。」と意味のことを語っています。
なるほどと思いましたので、付記しておきます。
《栄一が辞任した実業界の役職》
⑴取締役会長
東京瓦斯会社、東京石川島造船所、東京人造肥料会社、帝国ホテル、東京製綱会社、東京帽子会社、日本煉瓦製造会社、磐城炭礦会社、三重紡績会社、日韓瓦斯会社
⑵取締役
大日本麦酒会社、日本郵船会社、東京海上保険会社、高等演芸場、日清汽船会社、東明火災保険会社、
⑶監査役。
日本興業銀行、十勝開墾会社、浅野セメント会社、沖商会、汽車製造会社、
⑷相談役。
北越鉄道会社、大阪紡績会社、浦賀船渠会社、京都織物会社、広島水力電気会社、函館船渠会社、日本醋酸製造会社、小樽木材会社、中央製紙会社、東亜製粉会社、日英銀行、万歳生命保険会社、名古屋瓦斯会社、営ロ水道電気会社、明治製糖会社、京都電気会社、東海倉庫会社、東京毛織会社、大日本塩業会社、日清生命保険会社、品川白煉瓦会社、韓国倉庫会社、日本皮革会社、木曽興行会社、帝国へット会社、二十銀行、大日本遠洋漁業会社、帝国商業銀行、七十七銀行、
⑸顧問
日本醤油会社、石狩石炭会社、東洋硝子会社
⑹その他
京釜鉄道会社-清算人。日清火災保険会社-創立委員長。大船渡築港会社-創立委員長。東武煉瓦会社-創立委員長。日英水力会社-創立委員。韓国興行会社-監督。
《社会事業、教育関係の役職》
社会事業、教育関係では、下記の役職は、引き続き勤めることとしましたが、この時に高千穂学校資金保管監督、大倉商業学校協議員、専修学校商議員など辞任したものもあります。
東京市養育院長、東京市養育院資増殖会会長、東京慈央慈善協会会長、東京高等商業学校商議委員、日本女子教育奨励会評議員会計監管理委員長、日本女子大学校評議員財務委員、埼玉学友会会長、埼玉学生誘掖会舎友会会長、国学院大学顧問、癌研究会副総裁、孔子祭典会評議員、陽明学会評議員、喜賓会副会長、比叡山延暦寺顧問

