栄一、渡米実業団の団長として訪米(「青天を衝け」221)
渋沢栄一が渡米実業団を率いてアメリカに渡ったのは明治42年でした。
明治41年に、東京や各地の商業会議所がアメリカ太平洋沿岸の8商業会議所の人々を招待し大成功を収めました。
その翌年、 アメリカ実業界からの招待を受けたため、日本の実業家たちが「渡米実業団」を組織し、団長の栄一を筆頭として総勢51名が参加しました。
参加者は、東京商業会議所会頭・中野武営、大阪商業会議所会頭・土居通夫、京都商業会議所会頭・西村治兵衛、横浜商業会議所会頭・大谷嘉兵衛、神戸商業会議所会頭・松方幸次郎、名古屋商業会議所副会頭・上遠野富之助などで、主要都市の商業会議所の幹部が大挙して参加しています。
渡米実業団の参加者は、実業家のほかに、大学教授、技術者、著述家なども参加しています。名前の知られていると思われる人を挙げると、実業家としては根津嘉一郎(東武鉄道社長)、神田乃武(ないぶ:帝国大学教授)、田邊淳吉(清水組設計主任、青淵文庫、晩香廬など栄一ゆかりの建物の設計者)、巖谷小波(いわやさざなみ:児童文学者)などが参加していました。
また、栄一の随行員として、兼子夫人や増田明六(秘書)、高梨タカ子(栄一の姪)※が参加しています。
※高梨タカ子は、「青天を衝け」では高梨孝子と表記され、兼子夫人の姪と紹介されていましたが、ここでは渋沢栄一記念財団の資料に基づいて書いておきます。
高梨タカ子は、まだ日本女子大学校の学生でしたが、志願して実業団に加わり、実業団の帰国後も米国にとどまり、スタンフォード大学文学部、シカゴ大学大学院修士課程で社会学を学び、大正7年に帰国後は、日本女子大学校教授に就任し、早稲田大学教授だった田中王堂と結婚して田中孝子と改名しました。
渡米実業団一行は、8月19日アメリカ船・ミネソタ号で横浜を出港し、9月1日にシアトルに到着し、9月5日、アメリカ側が特別に準備した列車でシアトルを出発し、約3か月にわたり太平洋岸から大西洋岸までの25州、60都市・地域を巡って11月26日にサンフランシスコに到着し特別列車の旅も終え、11月30日サンフランシスコを発ち、12月17日横浜に帰ってきました。
「青天を衝け」で、栄一たちが特別列車の中で生活している場面がしばしば出てきましたが、渡米実業団の旅行は、あの通りだったようです。
栄一が明治43年5月に故郷八基村教育会において話した内容が、デジタル版『渋沢栄一伝記資料』収録の「竜門雑誌第264号」に掲載されていますが、そこで次のように語っています。
「今度の旅行は特に汽車を別に誂(あつら)え、シヤトルからして汽車に乗って、出掛けたのが9月の5日です。この5日から11月の30日まで、ズッと同汽車で旅行をしたのです。(中略)殆んど汽車の一室が小さくても一部屋になっておって、それが皆銘々(めいめい)戸が締るようになっている。(中略)その汽車の一と構(かまえ)が全く吾々の住居で一行の外には一人も這入っておらぬ。私は団長というから従者もありましたが三つ部屋を取って、そうしてその三つの室を我家として、始終その汽車に乗って旅をする。(中略)汽車の中で朝飯を終え、朝飯を終えると歓迎委員の人々が自動車で迎えに来る。(中略)そこへ行くと少なくも百人位寄っていますが、そこで歓迎の辞がある。御馳走も何もない。ただ寄ってよく来たという辞を掛ける。そこで代表者が答詞をしなければならぬ。(中略)私は団長の位置におりましたから、種々(いろいろ)なる人が来て手を握って、こういう訳である、ああいう事である、アメリカをどう見る、アメリカで何をビックリした、アメリカにはこういうものがある、これから先き十分に見せるというような話が段々ある、彼是と話をしている中に、食堂がよいからというので食事場へ案内される.食事が済むと後から演説で、こちらも一人二人挨拶をしなければならぬが、ことによると昼でも5人位の演説がある。だから昼飯の終るのは大低3時4時位になる。それからまた電灯あるいはガス工場というような、種々なるその土地の名物を見せられて、そうしてその晩汽車へ帰って着物を着換えて燕尾服に勲章などをつけて、いわゆる正服に改めて、今度はまた晩餐会へ出掛けて行く。この晩餐会の席は多くは立派なホテル、あるいは特に設けた会堂などもあります。またはこうような一個人の誰某(だれがし)の家で開かれることもある。この晩餐会がまた昼から見ると更に演説が多い。大抵どう早く終っても午前1時過ぎ位になる。それからまたすぐ汽車へ帰って来る。汽車へ帰ってやっと着物を脱いで寝衣に換えようとすると、汽車がゴロゴロ出掛ける。またその翌朝もそういう塩梅(あんばい)だ、毎日そういうありさまで53日を経過したと申してよろしい。」
これを読んだだけで、大変な日々が続いたことがわかります。
普通の人では、とても堪えきれないハードスケジュールだと思います。しかし、栄一はビクともせず、日程をこなして、皆を驚かせたようです。
デジタル版『渋沢栄一伝記資料』収録の「実業之日本第12巻第22号」に載った特別通信員の記事のタイトルは「一行皆渋沢男(男爵のこと:以下同じ)に舌を巻く」で、次のように栄一の元気な旅姿に驚嘆しています。
「『何といっても渋沢さんは実にエライ』という一語は、一行中においてしばば繰返えさるる言葉である。なるほど実にエライ、一行中船中で第一の朝起きは渋沢男である。出帆の翌日より大抵毎日朝五時過には必ず床を離れ、秘書役の増田明六氏を起して、幾回となく甲板上を運動される。それは元気なものである。次に運動が済むと読書される。これは一行中の予想外とした所で、男爵に驚いた特色の一つであった。一行中読書家の大関は堀越善重郎氏であるが、氏に次ぐものは男爵である。殊に朝食前といえども、少しばかりの時間を利用して読書さるる熱心と気力にいたってはただ感歎のほかはない。
上陸後男爵の大活動に至っては更に驚くべきものがある。上陸後も第一の朝起者はやはり男爵である。早い時は5時、また如何に前夜遅くなっても6時には必ず起きられる。起きればすぐに増田秘書役を呼び起して、新聞を見、日米の貿易並に経済の事に関した書籍を読まれる、8時の飯前にはモー訪問客が詰め懸けている。それから各種の歓迎を受け、工場・銀行・会社等を視察し、演説を為すこと一日少なくとも2.3回、夜は晩餐会・夜会・芝居見物等をおわって、旅館に帰る時は既に12時を過ぎ、おそきは2時、3時におよぶ事がある。而(しか)して男爵はどこにいっても団長として、中心として、注目・歓迎・談話の集注(しゅうちゅう)する所であるが、男は毫(ごう)も疲労の色なく、その精力の旺盛なること一行の壮者も遠く及ばない。真に勇気絶倫、一行中の大異彩である。」
栄一が、渡米実業団を率いてアメリカを横断したのが69歳の時ですので、驚くべき元気さだと思います。
この渡米実業団は、9月19日にミネソタでアメリカ大統領タフトをはじめアメリカの実力者とも面会していますが、そうした話は、機会があれば、改めて書こうと思っています。
ところで「青天を衝け」で、長州から移民した夫婦が娘とともに栄一たちの到着を待っているという感動的な場面がありました。
このエピソードが渡米実業団の記録に残されていないか調べましたが、現時点ではあの場面はみつかりませんでした。
しかし、デジタル版『渋沢栄一伝記資料』収録の「竜門雑誌 第259号」の中に、「青天を衝け」の場面を想像させる次のような記載がありました。
「23日にはリバーサイド土人教育所を参観し、それよりレッドランドの広大なる蜜柑(みかん)畑を通過し、いたるところ日本人労働者より歓迎を受けたり」
詳しい事情は書いてありませんが、レッドランドはカルフォルニア州の都市ですので、日本からの移民が大勢いて、郊外のミカン畑で働いていたのでしょう。そうした日本人労働者が広いミカン畑のあちこちあるいは特別列車のそばで手を振ったり気持ちばかりのプレゼントを持って実業団一行を歓迎している光景が目に浮かびます。
また、「渡米実業団誌」の11月26日に「一行が3ヶ月来寝食せる特別列車、いわゆる「輪上の家」は、ここに辞し去らざるをえず、なじみ深き車内のボーイ等使用人の中には、別れを惜んで涙を浮ぶる者さえあり。一行もまた日頃の労に酬(むく)ふるため、金員・記念品など与えて、篤(あつ)くこれをねぎらえり。」と書いてあります。
特別列車はいつしか「輪上の家」と呼ばれていたようです。「鉄輪の上の家」ということでしょうか。そして、3ヶ月間も寝食をともにした使用人とも国境を超えた友情が芽生えるのもごく自然でしょう。
こうした交流も渡米実業団の成果だったのだと思います。

