栄一、篤二を廃嫡する(「青天を衝け」223)
「青天を衝け」第40回では、篤二のスキャンダルが発生し篤二を廃嫡していました。そこで、今日は、篤二の廃嫡について書いていきます。
篤二は、明治28年23歳の時に華族橋本実梁(さねやな)の娘敦子と結婚しました。そして、結婚の翌年明治29年に長男敬三が誕生し、続いて明治30年二男信雄、明治33年三男智雄が誕生しました。
明治30年、深川福住町の渋沢邸内にあった多くの倉庫を活用して渋沢倉庫部が創業されると、篤二が倉庫部長となりました。渋沢倉庫部は、明治42年に渋沢倉庫株式会社に改組され、初代取締役会長となりました。
この間、篤二は新婚生活を深川福住町で始めていましたが、明治41年に三田綱町の五千坪もある仁礼景範(にれかげのり)海軍中将の屋敷跡に転居し、深川福住町の邸宅を移築しました。
このように特に問題なく過ごしていた篤二ですが、明治44年(1911)、突然、篤二と新橋芸者玉蝶のスキャンダルが表面化しました。これをきっかけに、翌年、栄一は篤二を廃嫡することになります。
この篤二の廃嫡については、デジタル版『渋沢栄一伝記資料』では一言も触れられていません。篤二の廃嫡について、詳しく書いているのは、文春新書「渋沢家三代」(佐野眞一著)です。そこで、「渋沢家三代」を参考に書いていきます。

篤二のスキャンダルは、明治44年5月26日の日刊紙「日本」に取り上げられ、多くの人が知ることとなりました。
その記事のタイトルは「三日丸髷 玉蝶と渋沢篤二氏」で、その一部を書くと次の通りです。
「(前略)玉蝶今度は手並の程を御覧じろと何とも言わぬがこの程に至って見事かしくの針に引懸(っ)けたのは鰕(えび)で鯛を釣(る)ような代物。
何(いず)れ目出度たいお方に極(きまっ)て居るが、さてもさても、その方というはた誰(だれ)あろう渋沢男爵の令息篤二氏(後略)」
「青天を衝け」で新聞面が表示されていましたが、この記事が書かれている新聞だと思います。
ここに書かれている玉蝶は、新橋叶屋の美人芸者で、「日本」の記事によれ、東武鉄道会社社長の根津嘉一郎のなじみだったようです。
どのような経緯で篤二と玉蝶がなじみになったのか書いたものはありませんのでよくわかりませんが、これ以降、篤二は、三田綱町の屋敷を出て、昭和7年(1932)死ぬまで20年余りも玉蝶と一緒に暮らすことになります。
この話にびっくりした篤二の姉穂積歌子は、もちろん、事態収拾に向けて奔走したようですが、以前紹介した「穂積歌子日記」(穂積重明編纂)で紹介されているのは明治39年までですので、「穂積歌子日記」で確認はとれません。しかし、「青天を衝け」で描かれていたように篤二が玉蝶と暮らしている家に歌子が乗り込むといったことは当然ありうることだと思います。
「渋沢家三代」によれば、穂積歌子のほか、篤二と少年時代から親しかった尾高二郎も篤二の説得にあたったものの効をなさなかったようですし、大倉喜八郎が向島の自宅に篤二を呼んで諭してもダメだったようです。
こうしたことから、栄一はついに篤二を廃嫡すること決意しました。
篤二の廃嫡が同族会で明らかにされたのは、明治45年1月28日の同族会でした。
この日の同族会について、デジタル版『渋沢栄一伝記資料』収録の「八十島親徳 日録 明治45年」の中で次のように書かれています。
「1月28日(前略)同族会は午後2時より洋館新書斎にて開会、(中略)
青淵先生より佳例により家法朗読および家訓講演の式を行われ、(中略)之より正雄・秀雄・重遠・同夫人・希一・敬三等の壮年少年諸氏は別席に休息せしめ。年長者(中略)だけを残し、その席において青淵先生より言を改め容を正し、予は高齢七十又幾歳、身心壮健なりといえ何時如何なる事なきを保せず、一家重大の事件に付ては正式に遺言をなし置く必要を認む、依(より)て自筆をもって草稿を認(したた)めたりとて、一同も前に朗読せる、要項凡そ五ケ条、曰く
一 ○中略 敬三をして相続せしむる事(以下4ヶ条略)」
この日の同族会は、家法の朗読など通例の行事が行われた後、渋沢正雄・秀雄、渋沢敬三など少年たちを退席させました。「青天を衝け」で、同族会の場面の前に渋沢敬三と正雄・秀雄が階段で遊んでいましたが、詳細まで拘った描写だと感心しました。
少年たちが退席したあと、栄一の自筆の遺言書が朗読されました。その内容は5ヶ条だったようですが、最も重要なことは「一、○中略 敬三をして相続せしむる事」という一条でした。この項目が篤二の廃嫡を意味していますが、元の資料も、篤二の廃嫡の部分は「〇中略」(赤字部分)してあり、廃嫡のことが外部の人にわからないような記載となっています。
こうして遺言書を読み上げた栄一や同族会の面々の様子についても、秘書役の八十島親徳は次のように書いています。
「右を宣言せらる、男爵も万感交(まじり)至り、胸塞(ふさが)り声くもり、涙を呑みつつ一句一句を口にせられ、またこれを聞く人々皆一言を発せず、一座はシーンとして人なき如し」
篤二の廃嫡が、栄一にとっても苦渋の決断であったし、その場でそれを聞く、穂積歌子・陳重、阪谷琴子・芳郎にとっても苦悩の選択であったことがよくわかる記録だと思います。

