徳川慶喜、天寿全うする。享年77歳「青天を衝け」225)
「青天を衝け」第40回で、栄一と慶喜が来し方を振り返り、「生きていてよかった。話をすることができてよかった。楽しかったなぁ」と言って、その後、慶喜が「快なり!」と叫んで、その後、慶喜が亡くなったことがナレーションで告げられました。
「快なり!」は、徳川斉昭の口癖で、慶喜もいくつかの場面で叫び、それがドラマを盛り上げていましたが、この「快なり!」は、脚本家大森美香さんの創作だと時代考証を担当した門松秀樹さんが、読売新聞のインタビューで語っています。
徳川慶喜を取り上げたドラマでも 徳川慶喜の逝去まで触れたものは、ほとんどなかったと思いますので、今日は、慶喜の最期について書いてみます。
徳川慶喜が亡くなったのは、大正2年11月22日です。慶喜が争った西郷隆盛、大久保利通も既になく、岩倉具視も明治16年に亡くなっており、政権を返上した明治天皇も前年に薨去していて、幕末維新の大変革の当事者の中で、徳川慶喜が最も長生きをしたことになります。長命した者が勝者だとすれば、朝敵とされた慶喜こそが真の勝者だということになるかもしれません。
徳川慶喜は、亡くなる前の11月4日、家扶を相手に囲碁した際、少し異状を覚えましたが、5日に九男誠が男爵を授けられたため、その御礼として6日病を押して宮中に伺候し、各宮家その他の廻礼を済まして帰ったところ、体調が急に悪化し、侍医の医療チームによる治療を行っていましたが、22日午前4時に容体が急変して、4時10分に亡くなりました。
栄一は、電話にて容態急変の連絡を受けると、直ぐに慶喜邸に駆け付けましたが、到着したのは慶喜がこと切れた後でした。あまりにも急な容態の変化のため後継の慶久も間に合わなかったようです。
当時の「東京日日新聞 大正2年11月23日号」の「徳川慶喜卿薨ず」の記事には、次のような栄一の談話が載っています。
「慶喜卿は平常余り丈夫でなかつた、不眠症にも罹っていられた、最近では一昨年国府津に転地されてから大した病気にも罹られず至極元気であったが、私は三つ卿より年下であるけれど、私より卿は長命であると信じていた位だった。煙草も酒ものまれないし、私も確く長寿を信じていたが、突然この急変で、今朝(22日)危篤と聞いて駈付けたが、モウ間に合はなかった、慶久公も同様であったらしい、旧幕臣の間に昔夢会というのがあって、15日に例会をやる事になつていた処が、卿も出席するとの御返事があった、ところが13日になって20日に延ばしてくれという事だから延期していたところが、この急変、豊崎家令が附切で御世話していたが、この人すら驚いた程急激だった、臨終の前夜卿は慶久公と豊崎家令を枕許に呼ばれて『今度の病気はとても回復の見込がない、私は死ぬる、決して慌てはならぬぞ』と遺言されたが、今から思うても卿はその時生あるもの必らず死ありといふ大覚悟があったに違いないと、更に新しい涙がこぼるるのである。」
徳川慶喜が亡くなると、親族旧臣が相談し、葬儀委員等が決まり、栄一が葬儀委員総裁となり、葬儀委員長には旧幕臣の沢鑑之丞(かんのじょう)造兵総監がなりました。
慶喜の葬式は、神式で行われることになりました。それについて、寛永寺側は困った結果、仮斎場を設けて執り行われることとなりました。
デジタル版『渋沢栄一伝記資料』収録の「中外商業新報 大正2年11月24日」に次のように書かれています。
「葬儀係総裁には故老公と縁故深き渋沢男爵を推し、葬儀委員長には旧幕臣たる沢海軍造兵総監これにあたる事となり、沢氏は午後より自動車を駆りて墓地ならびに斎場の下検分に赴きしが、最初斎場は上野寛永寺を以てこれに充(あ)つる予定なりしも、今回の葬儀は神道の儀式を以て執行さるる事とて、寛永寺も寺院の体面上如何にも面白からず、すこぶる当惑の様子なりけるゆえ遂に上野に仮斎場を設くるに決し、音楽学校北側なる旧天台宗大学跡の空地八百坪ばかりの処をえらび、不日(ふじつ)工事を始むるはずなりと聞く、(中略)墓地は既記の通り谷中なる徳川家墓地と定まり、(中略)ここには故夫人その他老公に先立たれし令息方を埋葬しある程にて、寛永寺内に埋葬せらるるというは虚伝なり」
将軍家の菩提寺は、上野寛永寺もしくは芝増上寺でした。そのため、初代家康から14代家茂までは、すべて仏式で葬儀が行われました。しかし、慶喜は神式を選びましたので、寛永寺は困ってしまったものと思います。
そこで、栄一が対応策を講じたようです。「徳川慶喜公伝」に次のように書かれています。
「この度の御事につきては、著者(栄一のこと)は御葬儀事務の総裁を託せられければ、万般のこと挂漏(けいろう)なからんやうにと心力を尽せし中に、寬永寺の中堂は、宗規上神葬をば許されずというにより、葬儀掛の人々は、音楽学校の隣地を以て式場に充(あ)てんと言いしも、余はこれを不使とし、寛永寺裏手の空地に仮斎場を造作すべき由を発議し、人々の賛同を得て、斎場殿」等を設計させたそうです。
慶喜が神式を選択したのは、「出身である水戸徳川家が神道を奉じていたため、あえて慶喜の場合もこの方針に則った」(菊池明・伊東成郎著「徳川慶喜101の謎」より)そうです。
ちなみに慶喜夫人の美賀子は明治27年に亡くなっていますが、当初は寛永寺内に仏式で埋葬されていましたが、のちに谷中の徳川慶喜家の墓所に神式に改葬されています。
11月29日には、勅使が小石川第六天町の徳川慶喜邸に差遣され、幣帛(へいはく)・神饌(しんせん)・御榊・玉串を賜った後、次の「誄詞(るいし:死者をしのび、その生前の功績をたたえて哀悼の意を表わすことば)」が伝えられました。ちょっと難解ですが紹介しておきます。
「『誄詞』 国家の多難に際して閫外(こんがい)の重寄(じゅうき:重大な責任)に膺(あた)り、時勢を察して政を致し、皇師を迎へて誠を表し、恭順(きょうじゅん)綏撫(すいぶ)以て王政の復古に資す、其(その)志(こころざし)洵(まこと)に嘉(よみ)すべし、今や溘亡(こうぼう:突然死去すること)を聞く、曷(いずくん)ぞ痛悼(つうとう)に勝(た)へん、玆(ここ)に侍臣を遣はし賻(ふ:死者をとむらうために喪家におくる財貨)を齎(もた)らし臨み弔せしむ」
徳川慶喜の屋敷跡は、現在は、国際仏教学大学院大学となっています。(下写真)

慶喜の葬儀は、大正2年11月30日に上野公園寛永寺第二霊屋後ろの仮斎場で行われました。慶喜の霊柩は、小石川第六天の自邸を出発し、小石川伝通院前を通って、上野に向いました。この日、東京市民は歌舞音曲を停止し最後の将軍の死を悼み、沿道では旧幕臣をはじめ多くの人々が慶喜の霊柩を見送ったそうです。
葬儀は、勅使を迎え執り行われ、喪主は徳川慶久、斎主は神田明神宮司平田盛胤が勤めました。会葬者は6~7千人に達し、仮斎場は人々で埋め尽くされました。
葬儀後、慶喜は、谷中の徳川慶喜家墓地に埋葬されました。
下写真左側が、徳川慶喜のお墓です。右側は美賀子夫人のお墓です。
孝明天皇の質素な御陵にならった形式だそうです。

最期に追記しておきます。
徳川慶喜が亡くなった時の東京市長は阪谷芳郎つまり栄一の娘琴子の夫でした。
阪谷芳郎は、徳川慶喜が亡くなったことを知ると臨時市会を開き、徳川慶喜に対する最後の感謝の意を表する哀悼文を決議するよう諮り、市会は満場異議なく可決しました。そして、阪谷芳郎は、決議後すぐに市会議長とともに、第六天町の徳川慶喜邸に向かい、哀悼の意を表しました。その哀悼文は次の通りです。
「東京市は麝香間(じゃこうのま)祗候(しこう)従一位勲一等徳川慶喜公の薨去(こうきょ)を悲み、特に市会を開き満場一致の決議を以て敬(うやまっ)て哀悼の誠意を致す、抑(そもそ)も江戸市府の開創は徳川家に成り、以降三百年、市民の安寧(あんねい)福祉を享受したるもの亦(また)徳川家の恵沢(けいたく)に由らずんばあらず、公は卓越せる英資を以て徳川家最後の征夷大将軍を拝し、群疑百出の間に処して惑(まど)はず、内外の多難を排して愆(あやま)らず、皇室を尊崇して七百年来武門に移りたる政権を奉還し、平和の間に江戸城を開き、維新の洪業(こうぎょう)をして容易ならしめ、都下の繁栄をして持続するを得せしめ、以(もっ)て我東京市今日の興隆を見るに至る、一に公の賜なり、今や公溘焉(こうえん:にわかなさま)として逝く、洵(まこと)に痛悲の至りに堪(た)へず、東京市民は深く公を哀惜(あいせき)すると共に、徳川家歴世の恵沢を追懐(ついかい)し、本市に対する公の偉勲(いくん)を感謝し永劫(えいごう)之(これ)を忘るなからんことを期す
大正2年11月25日 東京市長法学博士男爵阪谷芳郎」
阪谷芳郎は、昔夢会にも熱心に参加していましたので、幕末維新の慶喜の苦悩もよく知っていたと思われます。そして、新政府軍の東征に際して、慶喜が恭順に徹したことが江戸を戦火から守ることになり、江戸が燃えなかったがゆえに明治以降の東京の発展があったということもよく理解していたと思います。そうしたことから、心から感謝の念を込めた哀悼文になっているように思います。

