栄一、「徳川慶喜公伝」を完成させる(「青天を衝け」226)
「青天を衝け」第40回で、栄一と徳川慶喜が語り合うま場面の前に、慶喜が「徳川慶喜公伝」稿本の修正を行い、栄一が受け取る場面がありました。
そこで、今日は、「徳川慶喜公伝」について書いていきます。
「徳川慶喜公伝」は、慶喜との約束では、慶喜が亡くなった後に発刊する予定でした。しかし、栄一は、「徳川慶喜公伝」の編纂を進めていく中で、慶喜を巡る状況にも変化があったことから、できれば慶喜が生きているうちに発刊したいと考えるようになりました。
栄一は、「徳川慶喜公伝」の「自序」の中で次のように書いています。
「御伝記の当初の企図は、恐入った申分ではあるが、公の薨後に社会に出す考であったから、御生前に脱稿し刊行するとまでは予期しなかったが、公が東京に御住居になり、且萩野博士の立案によって此編纂を経始し、殊に昔夢会の開かれた頃からは考が変り、御伝記の全体については、素より永久に人心に裨益すべき入念の著作でありたいとは予期したけれども、一方には一日も早く其刊本を公にも御覧に入れたいと思うて、私は時々編纂諸氏を督励して、御覧に供すべき公も御老年であり、私も老人である、どうぞ其考を以て成るべく早くと催促した事は幾度もあったけれども、記事が複雑でもあり、大部な著述で、容易に脱稿とは参らぬ中に、図らずも公の御薨去遊ばされたのは、実に終生の恨事である。」
栄一は、このような思いで、編纂を急ぎましたが、慶喜が生きているうちに発刊したいという希望はかないませんでした。
しかし、「青天を衝け」で描かれていたように、第一回目の稿本まで出来上がり、慶喜自身がすべて読み、それに対する修正まで完了することができました。
さらに、第二稿も三分の一までは、慶喜に見てもらうことができたと「自序」の中で書いています。
従って、慶喜は「徳川慶喜公伝」の完成品を見ることはできませんでしたが、大部分に目を通すことができたといえると思います。
「徳川慶喜公伝」が完成したのは、慶喜が亡くなって4年後の大正6年秋のことです。明治26年頃に編纂を思いついた栄一が言っていますので、編纂を思いついてから完成まで足かけ35年かかったことになります。
完成した「徳川慶喜公伝」は、本編4冊、付録3冊、索引1冊、合計一部8冊、総枚数4200ページ余りの大著となりました。(下写真―渋沢史料館に展示されていました。)

慶喜の後継者徳川慶久が「先考興山公の霊に対する奉告文」が読み上げた後、栄一が、「徳川慶喜公伝」を墓前に献上し、「私は、この忘るるあたわざる忌辰(祥月命日)を卜しまして、御墓前において興山公の神霊に告げ奉らんと存じます」で始まる完成報告の辞を述べました。※興山とは、徳川慶喜の号です。下写真は渋沢史料館に展示されていた「献呈奉告式」の写真です。よく見ると写真中央に渋沢栄一が写っています。

さらに、翌大正7年3月18日に、都下の新聞社や雑誌社の人々を帝国ホテルに招いて、「徳川慶喜公伝」の刊行の披露をしました。
ここに招待された新聞社や雑誌社は、東京朝日新聞社、中外商業新報社、報知新聞社、万朝報社、読売新聞社、東京毎日新聞社、実業之日本社、東洋経済雑誌社などで、ほぼ東京の新聞社・雑誌社を網羅したものでした。
そして、各社は、「徳川慶喜公伝」刊行を記事として取り上げられたようです。
その記事の主要なものが、デジタル版『渋沢栄一伝記資料』に収録されていますが、その中から、栄一のこの行為を「渋沢男爵の男一代の意地」として高く評価した「東洋経済新報第810号大正7年4月5日」を紹介します。
なお、全文は少し長いのですが、注目した当該部分だけ引用します。
「《渋沢男爵の意地》 吾輩は男爵のこの解釈が適当に証明されたか否かを是に述べようとは思わぬ。また吾輩の力の及ばぬ所である。しかしながら昔から君臣の知遇は水魚に喩(たと)えるが、この知遇が渋沢男爵一代の意地に深き深き根を下ろして、これをまげることも抜くこともできぬ程、盛(さかん)なものに育て上げた。而(しか)して男爵の壮時の数年間、君と仰ぎたる慶喜公の大政返上に関する本心を明かにするために、而(しか)して世上の痛烈なりし批評に答えるために、二十三年間の不撓の努力をもって、この盛大なる著書を成すに至った男爵のこの意地は、実に吾輩の驚嘆崇敬を禁じ得ぬ所である。吾輩はまだ伝記を繙(ひもと)くの暇を得ぬから分らぬが、単に材料提供の立場だけから見ても価値のすくなからぬものであろう。また男爵の銀行業を中心として我が経済界に貢献したる功の大なる他に比肩するものはなく、この点において男爵は光っている。その他男爵に敬服すべき点はすくなかろう。しかもこれ等のいずれにも優(まさ)りて男爵に最も尊貴なるものは、慶喜公の知遇に対して立て通したアノ大なる男一代の意地である。而(しか)してまた吾輩は、当日男爵から与へられた最も貴重なるお土産として感謝を禁じ得ぬものである。(後略)」
「徳川慶喜公伝」の編纂が、「男の意地」によるものかどうかについてはいろいろな意見があると思いますが、少なくとも、東洋経済の記者は、栄一が「徳川慶喜公伝」を書いた行為を高く評価していることだけは事実だと思います。
また、この記事の前に次のような注目すべき部分があります。
「《慶喜公の本心》 以上で男爵が公伝編著に努力した由来は明かだが、問題は公のこの前後不揃(ふぞろい)の行動をどう解釈すべきかである。男爵、以為(おもえら)く、公は大政返上の覚悟を携えて将軍に就職したのではなかろうかと。この自問自答に炬(たいまつ)の如き光明を得て、男爵は男爵の力で手の届く限り、当時の材料の蒐集に懸り、その結果、その証明がほぼ立つ見込が付いたので、遂に公伝八冊の大著を成すことになったのである。」
ここで、「男爵、以為(おもえら)く、公は大政返上の覚悟を携えて将軍に就職したのではなかろうかと。」と書いてあります。これは、「栄一は、慶喜が大政奉還をする覚悟をもって将軍になったのではないだろうかと考えているようだ」と意味だと思います。
栄一は、一橋家に仕えていた際、家茂が死去した後の15代将軍に慶喜が就任することについて強く反対していました。そして、それを慶喜に具申しようと考えていましたが、その前に、慶喜は15代将軍に就職したという経緯がありました。
この時、慶喜は大政奉還をするつもりで15代将軍に就任したのではないかと栄一は考えたようです。
栄一は、慶喜の幕末維新期の行動について様々疑問がありましたが、その中に、なぜ慶喜は大政奉還をしたのだろうという疑問もありました。栄一はその答えがこれだと考えたのだ思います。

