栄一、ワシントン会議にあわせて訪米する。(「青天を衝け」227)
ついに「青天を衝け」が、栄一の最期まで描ききって最終回を迎えました。
渋沢栄一を描いた小説として有名なものに大佛次郎の「激流」と城山三郎の「雄気堂々」がありますが、それぞれ、栄一の前半生しか描いていません。そのため、「青天を衝け」も、当初は、栄一の最期までを描いてくれるとは思いませんでした。しかし、終わってみれば、「青天を衝け」は、栄一の全生涯を描いてくれました。これがまず素晴らしいと思います。主演の吉澤亮も91歳まで見事に演じきってくれましたし、最終回の演出も、現代を生きる私たちに栄一からのセージが問いかけられていて素晴らしかったと思います。
さて、最終回も、栄一の訪米、関東大震災、中華民国を支援などが描かれていました。そこで、それらのことについて順に書いていきますが、今日は、まず栄一の渡米について書いてみます。栄一の渡米については栄一の曽孫の渋沢雅英氏が書いた「太平洋にかける橋」が詳しく書いていますので、それを参考に書いていきます。
※それにしても渋沢雅英氏は96歳でご存命ですが、まさか「青天を衝け」で幼い頃が描かれるとは思ってもいなかっただろうと思いますし、インタビューが「青天を衝け」紀行の中で使用されるとも思わなかったでしょうね。見事な演出だったと思います。
栄一は、四回アメリカを訪ねています。第1回は明治35年63歳の時で、兼子夫人を同行してアメリカよりヨーロツパに廻わった漫遊旅行の際です。第2回は明治42年で70歳の時であり、この時は渡米実業団の団長として事業家の方々と約3ケ月間各地を廻りました。第3回は大正4年76歳の時、サンフランシスコでパナマ運河開通記念の博覧会があり、それに日本の実業家を代表して参加し、その後、アメリカの各地を廻っています。第4回は大正10年82歳の時、ワシントン会議の時で、この機会に日米親善を一層図るため、渡米しました。
第1回の渡米と第2回の渡米については、既にこのブログで書いていますので、お読みいただいていると思います。もし、まだの人がいましたら下記記事をご覧ください。
また、第3回の渡米については、まだ書いていませんが、「青天を衝け」では、いきなり4回目の渡米が描かれていたので、3回目を飛ばして4回目の渡米について書いていきます。3回目の渡米については、後日、機会を改めて書きます。
栄一の4回目の渡米は、悪化する日米関係の成り行きを心配した栄一が、大正10年11月12日から開催されることとなったワシントン会議の様子を実見し、日米平和に何らかの貢献をしようと考えたためです。
ワシントン会議は、アメリカ大統領ウォレン・ハーディングの提唱によりワシントンで開催された海軍軍縮および極東・太平洋問題に関する国際会議です。
この時の日本側全権は、海軍大臣加藤友三郎(首席全権)、駐米大使幣原喜重郎、貴族院議長徳川家達の3人でした。
栄一が東京を出発したのは、大正10年10月14日でした。
出発前の10月初め、当時健康を害して早稲田の自邸にひきこもっていた大隈重信を渡米の挨拶を兼ねて見舞いに行くと、アメリカとは「絶対に戦争をするようなことをしてはならんぞ」といって、ワシントンにおける栄一の尽力を頼みました。これは「青天を衝け」で描かれていた通りです。
なお、大隈重信は、この前年に開かれた栄一の80歳の祝賀会に出席して、「五十年来の旧友はまだおいでになるかもしれないが、はしめてお目にかかって以来、一見旧知のごとく五十年親しみつづけたというまじわりは少ないのである」と祝辞を述べています。この祝辞が「青天を衝け」の大隈重信のセリフに採用されていましたね。
さて、栄一の出発の日、東京駅には、時の総理大臣原敬(はらたかし)をはじめ中橋文相・高橋蔵相・山本農相・山梨陸相・大木法相等の各大臣、実業界の面々、さらに帝劇の女優や早稲田大学の学生など大勢の人々が見送りにきました。
日米協調を国策としていた原敬首相は、「お身体を大切に…」と言葉をかけ、これに対して栄一は「ありがとう」と答えながら堅く握手を交したといいます。
この時、東京駅に集まった人々は、この3週間後に、原敬首相が同じ東京駅で暗殺されるとは思いもよりませんでした。もちろん栄一も想像さえしませんでした。
栄一たち一行は、横浜から春洋丸にて出航し、10月29日、サンフランシスコに到着しました。サンフランシスコでは旧知の人々に歓迎されましたがゆっくりする暇もなく東海岸に向かい、11月5日ニューヨークのホテルに入りました。
そして11月7日にワシントンに向かい、軍縮会議の日本全権委員である徳川家達と幣原喜重郎に面会し、翌日の午後、首席全権加藤友三郎と会談しましました。「太平洋にかける橋」によれば、「栄一は、今回の会議については、日本はなにはともあれ米国に同調し、軍縮はもとよりのこと大陸政策についても譲れる限り譲って、東洋の平和の実現に寄与したうえ、新しい体制の中で繁栄と発展を築いてゆくべきであると信じていた。」ため、その視点から全権に意見を述べたものと思います。
そして、同日の午後3時20分に時のアメリカ大統領ハーディングとの会見が行われました。
ハーディング大統領との会見の様子を栄一が東京毎夕新聞ワシントン特派員に語った内容がデジタル版『渋沢栄一伝記資料』収録の「竜門雑誌 第403号」に載っています。
「只今大統領ハーデング氏との初対面を済まして来ました(中略)『老人とは聞いていたが、82歳と半分(6ケ月)は驚いた御壮健なものですでね』
ハーデング大統領は打ッつけ(ぶっつけ)に私の钁鑠(かくしゃく)振りに舌を捲(ま)いて見せました。で私は日本国民の一人として元来アメリカとの関係に深憂をもつものである事、ならびにワシントン会議の始末もどうか両国のために最善の前途が開かれたいものだとの意味を告げたのです。が、大統領は老けゆく齢の事に思いを馳せていたのです。
『渋沢さん、私は少壮年時代50歳位の人を見るとひどく老人のように思われてなりませんでした、が自分が50歳になって見るとそうでもありません、妙なもので』感慨多少といった大統領の語に次いで私は直(すぐ)に衝(つ)き入りました
『若い時分の考えと、年老ってからの考えは大いに違うものです、貴方が私のように80余歳になられたら、今のお考えも多少狂って来わしますまいか』ハーデング氏は私のこの言葉を肯定せずには措(お)きませんでした」
このように語った後で、栄一は、この会見で気にかかることがあったと次のように語っています。
「デモクラシーの本山へ参って私の意外に感じた事は、会見の場所に武官が厳めしく6人まで突っ起っていた事です。軍国主義の匂いを放散するかの如き光景とはお考えになりはしますまいか、根本平和を議する大会議を三・四日の後に控えたホワイトハウスですよ、コレがね、御維新前ナポレオン三世、レオポルド三世などにもお目にかかりましたがちょうどその時のありさまそっくりです、まさか逆転した訳でもございますまいが、妙にこう気になりましてね』
日米両国がそれぞれ軍国主義の勢いが強まっていくことに栄一は強い懸念を感じたようです。
ワシントン会議の進捗状況を気にしつつも、栄一は、各界の有力者との交流をすすめ、民間レベルでの日米融和に努力しました。
そうした中、12月8日には、2回目の訪米の際に面会した元大統領のタフトを訪問しました。当時、タフトは最高裁判所長官を勤めていましたが、栄一の来訪をことのほか喜んで、暖炉の前でよもやまの話に花が咲き、1時間あまりの会見時間もあっというまに過ぎてしまいました。栄一が帰る時刻には雨が降り出していたため、栄一を送るタフト前大統領は、栄一が雨にぬれないように戸外まで傘をさしかけて見送りし別れを惜しんでそうです。
栄一は、ワシントンに滞在し、ワシントン会議の有様を見ていましたが、12月10日にワシントンを発って、大陸を横断して西に向かいました。各地で旧友との旧交を温めつつ、12月31日にサンフランシスコに入りました。
そして、明日は日本に向かって出発という1月9日、出発前に病気見舞いに行った大隈重信が亡くなったという知らせが届きました。
大隈重信の死去の連絡を受けた翌1月10日、サンフランシスコを出航し、1月30日、横浜に帰ってきました。
栄一が帰国した後、ワシントン会議において、大正11年2月6日、海軍軍縮に関する五か国条約が成立したほか、太平洋に関する四か国条約、中国に関する九か国条約などが成立しました。五か国条約では、アメリカ、イギリス、日本、フランス、イタリアの五大国間で主力艦総トン数の比率をそれぞれ5、5、3、1.75、1.75とすることになり、四か国条約では、アメリカ、イギリス、フランス、日本間で太平洋の諸島嶼(とうしょ)に関して現状維持が合意されました。また、四か国条約の成立に伴い、長年結ばれてきた日英同盟が廃棄されることとなりました。