渋沢敬三、栄一のうしろ姿を追う(「青天を衝け」228)
「青天を衝け」最終回で、渋沢敬三が重要な役を果たしていました。最終回だけで言えば、渋沢敬三はもう一人の主人公と言ってよいほどだと思います。敬三が、最終回でこんなに重要な役割を果たすとはつゆ知らず、以前、動物学者になりたいと希望していた敬三が、栄一の懇願により二高の法科に入学したことまで書き、その後のことも簡潔に書きました。下記ブログをご参照ください。
しかし、「青天を衝け」最終回では、さらに敬三について詳しく描かれていましたので、今日は、改めて渋沢敬三について書いてみます。
渋沢敬三は大正7年に二高を卒業すると東京帝国大学法科経済科に入学し、大正10年に卒業しました。そして東大を卒業すると第一銀行でなく横浜正金銀行に入社しました。これは、「青天を衝け」で敬三本人が述べていたように「他人の飯がくってみたくて、祖父にたのんで正金銀行にいれてもらった」のでした。
ちなみに、横浜正金銀行とは、現在の三菱UFJ銀行の前身の銀行です。明治12年に貿易金融の専門銀行として設立され、明治20年に横浜正金銀行条例が制定され、半官半民の特殊銀行となりました。そして、戦後の昭和21年に東京銀行となり、三菱銀行との合併により、東京三菱銀行となり、現在は三菱UFJ銀行となっています。
さて、本論に戻りますが、大正11年5月23日に、京都府知事木内重四郎の娘登紀子と結婚しました。登紀子は今泉マヤが演じていましたね。
「父渋沢敬三」(渋沢雅英著)によれば「父は母の兄と中学時代に同級で、その縁で知り合っていた母を嫁にもらうことになったのだ」そうです。
木内重四郎の妻磯路は、岩崎弥太郎の次女です。そのため、登紀子は岩崎弥太郎の孫娘ということになります。そのため、二人の「結婚式の写真には、岩崎家の縁故で当時の総理大臣加藤高明夫妻や幣原喜重郎夫妻の顔も見えている」(渋沢雅英著「父渋沢敬三」より)そうです。
加藤高明、幣原喜重郎は、二人とも「青天を衝け」に登場していましたが、二人とも夫人は岩崎弥太郎の娘です。
栄一と岩崎弥太郎は、以前書いたように相いれない仲でした。そのため「大事な跡取りの敬三が、弥太郎に縁の繋がる女性と結婚することに反対するのではないかと家族の間では取りざたされましたが、実際にはそのようなことはなく」(渋沢雅英著「岩崎弥太郎と渋沢栄一」より)、二人の結婚披露宴は、大勢の人々が列席し華族会館で盛大に行われました。

結婚後まもなく、敬三は、横浜正金銀行のロンドン支店に勤務することになり大正11年11月ロンドン支店に着任しました。そして大正14年2月27日長男が生まれました。長男の命名も栄一が行い、「青天を衝け」に描かれていたように「マサワフーガノガ ヒデワエイコクノエイ」という電報で敬三に知らせています。
大正14年7月に帰国命令があり8月にロンドンから帰国しました。その年の12月に横浜正金銀行を退職し、翌年7月に第一銀行取締役に就任し、栄一の秘書役を行いながら、栄一の後継者としての道を歩み始めました。
そして、栄一の葬儀では敬三が喪主でなり、名実ともに栄一の後継者として栄一の葬儀を執り行いました。
「青天を衝け」で、栄一が亡くなった後の追悼会で、敬三が栄一について語る場面がありましたが、その場面については、後日、改めて書きます。
栄一が亡くなった後の敬三ですが、昭和16年4月に第一銀行副頭取となりましたが、その翌年、時の賀屋大蔵大臣などからの強い要請により、日本銀行副総裁になるよう要請されました。しかし、将来第一銀行頭取となることを予定していた第一銀行は強く反対しましたが、最後は、東条英機により要請されたため、やむをえず受諾することとなりました。
この時、敬三の母敦子は、第一銀行の人々とは異なり、大変喜んだという話が「渋沢家の女性たち」(渋沢雅英著)に載っています。

「副総裁就任が決まった夜、敦子は松濤の家で、堰を切ったように大量の涙を流し、両手でいく(※敦子の女中)の手にすがって、かき口説いたということです
『第一銀行の副頭取は、おじいさま(※栄一のこと)のご威光で、いわば当然と考えていたが、今度日銀に招かれたのは、敬三自身の能力と人格を認められてのことであり、敬三がこれまでになってくれたことに対して、なんと言って感謝したらいいかわからない これでやっとあの世でおじいさまにご挨拶をすることができる…』と言って、数時間にわたってとどまることなく、声を上げて泣き続けたといわれています。」
そして、この母が昭和18年に亡くなった際に敬三は次のように語ったと「渋沢家の女性たち」に書かれています。
「お通夜や葬儀など万端の準備が進められるなかで、父の敬三が珍しくしんみりとした声で『この人の受けてきた苦しみの深さは誰にもわからない。明治の女生らしく、それに耐えてきた芯の強さは大変なものだった。本当にえらい人だった。』と言ったのを、いつになく感動して聞いたのを今でも覚えています。」
こう感じた敬三も、自分の希望と違う道を歩まざるをえず、しかも栄一の後継者として重責を負わされてきたという敬三の来し方を思うと、敬三自身も、「芯の強さは大変なものだった。本当にえらい人だった。」のではないかと思います。

