栄一、関東大震災の救援に立ち上がる(「青天を衝け」229)
大正12年9月1日午前11時58分、関東地方は大きな地震に見舞われました。関東大震災です。
栄一は、兜町の事務所で執務していました。栄一が1回目の振れに驚き椅子を離れると第2の揺れがきました。これにより、マントルピース(暖炉のたき口を囲む飾り)の上に張った大硝子鏡は転落して粉砕し、中央高く吊るされた大シャンデリアは落下してきましたが、幸いにも危機一髪の間に逃れることができました。
そして、事務所の外に出てから、近くの第一銀行本店に行き、幹部の人々と昼食食べた後、午後3時頃、第一銀行の好意により自動車で飛鳥山邸に帰りました。
飛鳥山邸は屋根瓦の落下など多少の被害がある程度でしたが、余震が断続していたため、庭園に急ごしらえのテントを張り、ここで一夜を過ごしました。
栄一が、兜町を出る頃は、火災は起きていませんでしたが、その後、下町一帯は大火災が起き、渋沢事務所も焼失しました。この事務所には、それまで集めた資料が保存されていましたが、それらが全焼したため、栄一のショックは大きなものがあったようです。「青天を衝け」で描かれていた通りです。
関東大震災の際の栄一について渋沢秀雄が「父渋沢栄一」の中で二つのエピソードを書いています。

「無気味な余震は一向やまない。庭の広い芝生にトタン屋根の丸太小屋が急造され、中に寝具が用意された。両親も一族もそこに寝た。門前からは不安な騒音がひびいてくる。しかし父は私の隣りで横になったと思う間もなく、大きなイビキをかきはじめたのに、私は目がさえて眠れない。なるほど大きな仕事をする人は、無駄な神経を使わないものだ。…私はそう思いながら寝がえりばかり打っていた。」
この場面は「青天を衝け」では家族みんなが見ている中で一人栄一だけが熟睡する場面として描かれていました。
そして渋沢秀雄の筆は次のように進みます。
「その翌日、 父は玄関の前へ椅子を出して腰かけ、両手をステッキの上に重ねながら、大勢の人たちにいろいろと指図していた。私は兄の武之助とこんな相談をした。焼け出されてャケになった暴民が、過激な社会主義者に扇動されたあげく、裕福そうな家へあばれこまないとは限らない。老体の父に怪我でもあっては大変だ。しばらく父に郷里へ帰ってもらい、東京が安定してから復興に尽くしてもらおう。兄がそんな主意を述べると、父はみなまで聞かずに、「馬鹿なことを! 考えてもわかりそうなものじゃないか。ワシのような老人はこんなにいささかなりとも働いてこそ、生きてる申訳が立つようなものだ。それを田舎へゆけなどと、卑怯千万な…」
兄がなおも言葉をつづけると、父は激しい語気で、「もうよしなさい。これしきのことを恐れて、80年も生きてこられたと思うのか? あまりと申せば意気地がない。そんなことでは物の役に立ちはせんぞ!」それから3日目に、父はもう市内を飛びまわっていた」
これも、「青天を衝け」で描かれていましたね。私も映像をみて改めて感動しました。
大正12年9月9日、東京商業会議所に約40名の実業家が集まりました。そして栄一は民間有志による救護・復興のための組織を提案し、みんなから賛同をえました。そして、11日には貴族院・参議院議員有志も加わり「大震災善後会」を結成しました。同会は「罹災者救援及び経済復興」を目的とした組織で、会長に徳川家達、副会長に栄一他2人が就任し、寄付金募集と資金配付先の準備を開始しました。下写真は渋沢史料館の展示です。

栄一自身も内外の実業家に、早速、寄付を呼びかけ、9月11日に、アメリカの知人25名に書面で関東大震災の被害状況を伝え、アメリカの援助をお願いしました。また13日には、別の20名に電報で、関東大震災の被害の状況を連絡し、アメリカの援助を依頼しました。
こうした栄一の呼びかけに応じて、「青天を衝け」で描かれていた通り、アメリカから多くの寄付が寄せられました。
その中で、「青天を衝け」では、ケチャップで有名なアメリカの食品メーカーであるハインツから豆の缶詰が送られてきたと知らせる場面がありました。また、「HEINZ BAKED BEANZ」と記された木箱が大写しされ、栄一が「友とはありがたいものだ」と印象的なセリフを場面もありました。
この豆の缶詰を送ったハインツの社長ハワード・ハインツから栄一に送られた書簡がデジタル版『渋沢栄一伝記資料』に収録されていますが、その中に2万3千個の煮豆缶詰を寄付したことともに日米の絆に強めるだろうと書いてあります。元々は英文ですが和訳したものを紹介します。
「南部において数日休養の後帰来致し、9月11日附の貴翰(きかん:手紙のこと)正(まさ)に入手難有(ありがたく)拝見仕(つかまつり)候(そうろう)、震災の報道を得たる後直ちに小生は、閣下を始め罹災せる人々の為に御援助申上得べき方法も候わば御一報を乞う旨、打電(だでん)申上置(もうしあげおき)候(そうら)えども、右は定而(さだめて)御入手無かりし事と存候(ぞんじそうろう)
小生は直ちに日本協会に宛て寄附金を電送致候(いたしそうろう)、当会社は最初の便船を以て東京に向け発送すべき煮豆鑵詰約三万五千個を、米国赤十字社を通じて寄附(きふ)致候(いたしそうろう)
小生は今回の大災害程日米人間の友情を誘起したる事実あるを知らずかつ日米両国の友誼(ゆうぎ)に関する不安を、米国の人心より除くことを得たるもの無之(これなし)と存候(ぞんじそうろう)、大災厄に悩めるものある時、これに深く同情するは人情の常と存候(ぞんじそうろう)、即ち人類は人種・宗教及政治を超越して友誼の絆に結ばれ、しかもこの絆は次第に強靭を増す傾向あるものと存候(ぞんじそうろう)」
栄一は、被災者全員のために尽力していましたが、その中には飛鳥山邸がある地元滝野川町民もいます。
滝野川町からお米が不足しているとの話を聞いた栄一は、埼玉県から白米を取寄せて、飛鳥山邸を食糧配給本部として、町民に配給しました。
「滝野川町制20周年記念滝野川町誌」に次のように書かれています。
「避難者のために一躍倍加した民衆に片時も欠くべからざるものは、食糧品であるのに、たちまちにして欠乏払底(ふってい)となり、之れが調達と配給とは、当局者の非常な苦心であったが、是亦、幸にも渋沢子爵の多大なる配慮により、郷里埼玉県より玄米の供給を得る事となり、同邸を滝野川町食糧品配給本部に宛(あ)て、全町に組織せられた公共団体並に自警団約30団体と連絡して、一糸乱れざる統制の下に、機敏なる配給事務が行はれた。」
栄一が亡くなった際、栄一の霊柩が飛鳥山邸を出ると、「滝野川町内は戸毎に弔旗を掲げ、その両側は喪章をつけた町内各小学校児童、(中略)その後に町民も総出で悲しい行列の見送りだ。同町役場前に「謹而送霊柩」の黒わく付大きな立札が」(東京朝日新聞昭和6年11月15日号街)立てられ、多くの町民が見送りました。
また、太平洋戦争時の米軍機による大空襲の際に、火が飛鳥山邸が近づくと近隣の町民が「渋沢さんの屋敷を守れ」といってバケツリレーで消火にあたったそうです。そうした近隣町民の必死の消火活動の甲斐あって焼け残ったのが、現在も残る青淵文庫と晩香廬だそうです。
これほど、滝野川町民が栄一を慕ったのは、いろいろ要因があるとは思いますが、関東大震災に栄一に支援してもらったことも大きく影響しているのではないかと思います。
こうしたエピソードを知ると「情けは人のためならず」ということわざが思い起こされます。

