栄一、永眠す(「青天を衝け」231)
これまで、「青天を衝け」にあわせて、渋沢栄一の生涯を追って来ましたが、ついに栄一の最期を書く時がやってきました。感慨深いものがあります。
昭和6年11月11日、渋沢栄一は永眠しました。享年92歳(満年齢91歳)でした。
栄一は、昭和6年10月7日、腸の狭窄(きょうさく)が起り非常に苦しみました。そこで、主治医の先生たちは、人工の肛門をつくるため、手術をしようと考えました。栄一は、初めはなかなか手術に賛成しませんでしたが、よくお医者さんから説明をし、それでは手術を受けましょうということになって、10月14日に、飛鳥山邸の病室で手術を行ない、約20分にて無事手術が完了しました。
栄一は、「手術当日は、非常に平静で、三国史の中に関羽が華陀という有名なお医者さんに毒矢に当った骨を剖(さ)いてもらう所などを思出しまして、自分はとても弱いから麻酔薬なしではそういうことはできないと言って、笑っていた」(12月11日実業団追悼会での渋沢敬三の話より)そうです。
手術のあと病状は順調に経過をしました。しかし、1週間を過ぎてくると、食慾が止りました。
その頃、栄一は、口癖のように余命を貪(むさぼ)ることを嫌っていたため、周りのものが熱心に勧めれば一椀・一匙と食べたものの、その後は食べないため、段々体力が消耗していきました。
そこで、10月31日に、ついに主治医入沢達吉の名前でもって栄一の容態がよくないことが発表されました。
栄一の病状が良くないことは、新聞の各夕刊であるいはラジオのニュースによって報道され、午後3時過より見舞客の数を増ました。
そして、東京朝日・東京日々・郵便報知・電通・連合・時事・中外などの各新聞社から特派の記者が飛鳥山邸にやってきたため、青淵文庫が開放されて記者の控室としました。
栄一の故郷八基村(やつもとむら)※の人々に対しては別途文書でもって通知されました。この知らせを受けた八基村では、代表者5人が、栄一の病気平癒祈願のため、毎日地元の諏訪神社に参拝することにしました。※明治22年、血洗島村、下手計村、上手計村等8村が合併し手計村となり翌23年に手計村から八基村に改称しました。
発表翌日の11月1日には、皇后陛下から病気見舞いとして、野菜一籠が下賜され、2日は、皇太后から菊花・鶉卵・果物・牛乳が下賜されました。
そのほか、栄一の病状を心配する人々のお見舞いが続きました。
病状発表後も、栄一の病状があまり良くなりませんでしたが、11月8日は、気分が良くなったと見えて、郷誠之助男(日本商工会議所会頭)・佐々木勇之助(第一銀行前頭取)・石井健吾(第一銀行頭取)その他財界の有力者がお見舞いに来ていることを耳にして、篤二を通じて次のような言葉を伝えました。(デジタル版『渋沢栄一伝記資料』収録の「竜門雑誌 第518号」より)
「私は帝国民としてまた東京市民として、誠意御奉公をして参りました、そしてなお百歳までも奉公したいと思いますが、この度の病気ではもはや再起は困難かと思われます、しかしこれは病気が悪いので私が悪いのではありません、たとえ私は他界しても、皆さんの御事業と御健康とを御祈し守護致します。どうか亡き後とも他人行儀にして下さいますな」
これを聞いた財界有力者たちは、これを栄一の遺言と受け止めたとのことです。なお、「青天を衝け」で描かれた「渋沢栄一追悼会」で渋沢敬三が最後の栄一からのメッセージを胸ポケットから取り出して参加者に伝える場面がありましたが、その時のメッセージとしてこの時の伝言が取り上げられています。
しかし、9日の朝、突然高熱を発しそれ以降は、人事不省の状態が続きました。そして、ついに栄一が永眠する時を迎えることになりました。
デジタル版『渋沢栄一伝記資料』収録の「竜門雑誌」には次のように臨終の様子が書かれています。
「(11月11日)1時50分
火の様な心臓の働きが、遂にパツタリと止んだ。御臨終を告げられる林先生の声も衰へて、枕頭にどっと人々が集る。
せきとめられて居た皆様の、あらしの様な感情は今身もだえと涙と肺肝をつき破る悲しみの声となって枕頭を震わせ部屋をこめた。(中略)
安らかな永久の眠りについた巨人の遺骸をかこんで、かなしさも淋しさも超越した涙と嗚咽とが、何時までも何時までも続いている。あの親しみ深い洋館の御居間の高い寝台の上で、先生はいとも安らかな眠りに入っておられる。生前から、生と死との間を超越しておられただけ、死という暗い蔭は少しもない、ただ深夜であることとつつましい近親の方々の、巨人の薨去に対する心づかいで、あたりがしいんとしていることが崇厳そのものの感じを与える。兼子令夫人・篤二氏・敬三氏・穂積男爵御母堂・阪谷男爵令夫人・武之助氏・正雄氏・秀雄氏・明石氏・穂積男爵、またそれぞれの令夫人その他の方々が眼頭を赤くして立ち並んで居られる。またその傍には、論語をいっぱいに書かれた六曲屏風一双が、永久に先生を護り顔である。また何時もと変らぬ先生の童顔は、心持ち東に向って居られるが、そこには皇太后陛下・高松宮・竹田宮から賜わった菊花や西洋花が置かれてある。また幾夜も幾夜も徹宵看護に尽された諸医師や看護婦も厳粛に並んで居る。一代の偉人、我々竜門社の者が慈父と仰ぎ慕った青淵先生には、和やかにむしろ微笑ましげに、現世からの旅に立たれたのである。(後略)」
こうして、ついに一代の英雄渋沢栄一は天寿を全うし永眠したのでした。
渋沢栄一が亡くなった11月11日は、渋沢史料館では、毎年「青淵忌(せいえんき)」を行こなわれています。また、栄一の出身地深谷では、この日、小学校の給食に栄一の好物であった「煮ぼうとう」が出されなど、栄一をしのぶイベントが行われています。