栄一、明治神宮創建に動く(「青天を衝け」232)
新年あけましておめでとうございます。
今年の初詣はどのくらいの人がいくのでしょうか。初詣には多くの人が明治神宮にお参りします。そのため、初詣日本一は明治神宮ですが、今年は例年の半分ぐらいだと朝の明治神宮からのテレビ中継で神職の人が話していました。
初詣日本一の明治神宮は、明治天皇と昭憲皇太后を祭神として大正9年11月1日に鎮座されました。この明治神宮の創建にも、渋沢栄一が大きく関わっています。そこで、今日は明治神宮創建と渋沢栄一との関係について書いていきます。下写真は以前訪問した際に写した明治神宮本殿です。
渋沢栄一は、明治天皇を奉仕する神宮を東京に創建しようと考え、東京市長阪谷芳郎(栄一の次女琴子の夫)・東京商業会議所会頭中野武営(たけなか)等と協力し、大正元年8月9日「神宮御造営奉賛有志委員会」を組織して、その委員長となりました。
この時の栄一の話が、デジタル版『渋沢栄一伝記資料』収録の「竜門雑誌291号」「○明治神宮奉建の議」に次のように書かれています。
「『予(栄一のこと)はまず井上(馨)侯に面会してその希望を述べたるに対し、侯は神宮奉祀の大体についてはどこまでも賛成なるも、その方法を如何にするかは当局者たる西園寺首相あるいは渡辺宮相に計られたし、しかしながら当局より予に協議ありし場合には、東京市民の至情さもあるべき事なれば、その実行に努められたき旨勧説すべしと述べられたり、次で松方(正義)侯に面会して同く希望を述べたるに侯は井上侯とほぼ同様の答なりき、次で山県(有朋)公に面会して希望を開陳したるに、公は希望の大体には賛成なるがかかる事を遂行せんとするには充分将来を考慮したる上ならざればいろいろなる害を生ずる事なきにしもあらず、(中略)当初充分注意を要すべしと述べられたり、而(しか)して渡辺(千秋)宮相(宮内大臣のこと)には既に前日も次官を経て希望を上申し置きしが、昨日再び面会し改めて其希望を述べたるに、宮相は個人としては固(もと)より賛成なるが、いまだ何等の詮議なきを以て、その実行方法を如何にすべきかは考えおらず、頃日来東京市民その他各団体の希望協議等ある由なれば、とにかくその実行方法等につき纏(まとま)りたる事項を覚書として示されなば之を参考とすべしとて極めて懇篤に述べられ、なお西園寺首相に面会せしに、首相も大体賛成せられしも、青山の位置は地勢樹木等適当なりとは思われず』との意見なりと報告し」たそうです。
この栄一の報告を聞くだけでも、政界の大物そして内閣総理大臣、宮内大臣に周到な根回しをしていることがわかります。ちなみ、井上馨、松方正義、山県有朋の3人は、それぞれ薩長出身の首相経験者で、俗にいう元老と呼ばれた実力者です。
9月、栄一は、神宮内苑および同外苑の奉建等の具体案に関する覚書を作成し、西園寺首相および原内相を訪問し神宮創建の希望を述べたりするなどして、創建のため運動を続けましたが、政府としても重要な事項であることから、即座には決断するわけにはいかなかったようです。
そこで、翌大正2年8月にも改めて請願書を内務大臣に提出しました。
こうした運動を受けて、ついに大正2年10月28日、神宮を創建することが閣議決定されました。
この時の決定を報じた「東京日日新聞 大正2年10月31日号」(デジタル版『渋沢栄一伝記資料』収録)は次のように書いています。
「昨年明治天皇御大喪儀の砌(みぎり)東京市民は御陵の地を帝都に定められたき希望を有し居たるも、桃山は先帝が御在世の時より愛(め)でさせ給ひし処なりしため、同地に御治定相成りしより、一般市民はいふに及ばず阪谷市長、渋沢・近藤両男、中野武営等の諸氏は是非とも先帝の御遺徳を千古に伝へまつらん為め、東京市に明治神宮を奉建せん事を望み、昨年8月16日東京商業会議所において実業界の有力なる人々相会し協議会を開き、覚書を作成して山県公・松方侯・井上侯等元老の賛成を得てこれを時の政府に送致したるが、この事は現在の山本内閣に引継がれ、建設の方法・場所、維持費等に関して屡(しばしば)会議を開きしが、いよいよ27日の閣議において奉建の事に決定したれば、近日上奏御裁可を仰ぎたる上にて、経費1万5千円を以て官民合同の奉建方法の調査会を設けむことを決定したる上、改めて議会の協賛を経る筈(はず)なるが、明治神宮奉建の場所は青山練兵場より代々木御料地にわたる広大なるものにて、青山練兵場の葬場殿跡に外宮を建設し、内宮は代々木御料地となし、青山通りに接せる方は市費にて理想的の一大公園を作るべく、様式はすべて華美を避け質素にて壮厳なるものとなすべく、内宮苑は国費を以て建設し、外宮苑その他は商業会議所を中心として明治神宮奉賛会なるものを組織し、宮殿下を総裁に奉戴し、会長は田中伯若しくは土方伯を仰ぎ、市民の赤誠を致せる浄財を以て建設し、これを献納する事となるべしと」
ついに、明治神宮が東京に創建されることとなりました。そして、内苑(現在の明治神宮)は、国費で整備され、外苑を民間が奉献することとなりました。
これを受けて、大正3年12月14日、栄一は、東京市長阪谷芳郎・東京商業会議所会頭中野武営等と相談し、全国民による神宮外苑を造営し奉献するための「明治神宮奉賛会」を創立する準備に入りました。
翌年の大正4年6月総裁に伏見宮貞愛親王をお願いすることが許され、また、会長に徳川家達にお願いし承諾されました。これにより総裁伏見宮貞愛親王、会長徳川家達とする「明治神宮奉賛会」が創立されました。副総裁は山県有朋・松方正義、顧問は大隈重信、大山巌、東郷平八郎等、副会長は、栄一、阪谷芳郎、中野武営、三井八郎右衛門という体制でした。
「明治神宮奉賛会」は全国民に寄付を訴えました。こうした活動により大正15年3月には当初予定した450万円をはるかに超える1001万円を集めることができました。
大正7年6月1日に地鎮祭が行われた外苑の工事ですが、大正15年に、聖徳記念絵画館、憲法記念館、陸上競技場、野球場・プールが完成し、大正15年10月22日聖徳記念絵画館で、「明治神宮外苑奉献式」が執り行われ、完成した建物・施設が明治神宮に奉献されました。
栄一は奉賛会副会長として地鎮祭にも奉献式にも参列しています。
ちなみに、こうした歴史があるため、現在でも、国立競技場を除く明治神宮外苑全体を明治神宮が管理しているようです。
これまでみてきたように、渋沢栄一は、明治神宮の創建、そして代々木への鎮座、さらに奉賛会設立から外苑の奉献まで、一貫して明治神宮のため尽力してきました。
栄一たちが東京への神宮創建を真っ先にお願いしなければ、東京に明治神宮が鎮座することはなかったかもしれません。また、神宮外苑の諸施設建設は栄一のリーダーシップの賜物と言えるでしょう。
また、明治神宮周辺の森は、自然林のように感じられます。しかし、この森は、明治神宮が創建された際に、全国から献納された10万本の樹木が植えられた人工林です。この「神宮の森」の造成にも栄一が関わっているとNHKのホームページ「青天を歩け」に書かれています。
もし、そうであれば、栄一は、「神宮の森」造成でも大きな影響力を発揮したということになります。