栄一、浅草寺復興を支援(「青天を衝け」233)
昨日は、渋沢栄一が初詣日本一の明治神宮の創建にもかかわっていたというお話をしましたが、東京で明治神宮に次いで初詣客の多い浅草寺にも渋沢栄一は関わっています。そこで、今日は、関東大震災で被害を受けた浅草寺の本堂復興を支援した渋沢栄一のお話をします。
栄一は、大正13年7月に、浅草寺の信徒総代となり、死ぬまで浅草寺の信徒総代を勤めました。
信徒総代とは、宗教団体法で、寺院で選任するよう定められている役で、総代は「住職ヲ扶ク」とされています。
栄一が浅草寺の信徒総代に選ばれた理由については、デジタル版『渋沢栄一伝記資料』収録の「浅草寺執事壬生雄舜手記」に次のよう書かれています。
「子爵(栄一のこと)が浅草寺信徒総代に就任せられし動機は、子爵がかねて東叡山寛永寺の檀徒であり、また救護僧正と眤懇の間柄でもあり、又壬生執事の川越喜多院住職である関係上、これまた眤懇のこととて、当浅草寺が近年社会的に活動しつつあるをもって、子爵の如き名望家を顧問の意志にて信徒総代に就任方を懇請したるに、これを諒として快諾せられたるものなり。」
浅草寺は、現在は、聖観音宗の本山として独立していますが、江戸時代中期の元禄年間に、5代将軍綱吉によって当時の住職が追放され、それ以降は、東叡山寛永寺の支配下に組み込まれていました。
栄一は菩提寺を寛永寺として、寛永寺の檀徒総代を勤めていました。そのため、上野の寛永寺とは非常に密接な関係にありました。そして、親しくしていた寛永寺住職の救護栄海大僧正から浅草寺の信徒総代を依頼されたので、栄一は快諾したという経緯のようです。
大正12年9月1日、関東大震災が発生し、浅草寺は念仏堂など諸堂舎を焼失した。また、本堂・五重塔・仁王門など主要な堂塔は倒壊・焼失を免れたものの、本堂が傾斜する等の被害がありました。
大正14年9月28日には、被害を受けた本堂の修復をするため、浅草寺臨時営繕局が設置され、栄一は顧問に就任しました。
「浅草寺観音堂大営繕趣意書」がデジタル版『渋沢栄一伝記資料』に収録されていますが、そこには次のように書かれています
「大正12年の大震火災に遭ひ、堂塔の震害を受くること頗(すこぶ)る多し、唯観音の妙智力に依り本堂・仁王門・五重塔・経蔵より伝法院に至るまで、四面劫火の中にありてその厄を免れたるを尊く感ずるのみ、災後既に三年、暫く罹災者の復興待ちたれども、本堂の傾斜、棟棰(むねたれき)の腐朽甚(はなはだ)しく、一日の遅延は百年の悔を貽(のこ)す患(うれい)あり、仍(より)て玆(ここ)に公然僧正の遺法を奉じ、衆庶(しゅうしょ)帰依(きえ)の力に依りて、永く本尊の宝座を安んぜんとす。」
本堂の修復には多大の費用がかかるため、この趣意書をもって各方面に寄付をお願いしました。
最終的に、浅草寺が当初予定した寄付金額を集めることはできなかったようですが、栄一は寄付が集まるよう尽力したようです。栄一自身も千円の寄付をしています。
昭和3年5月、本尊を遷座して本堂の修繕に着手しましたが、本堂修復が完成し竣工したのは昭和8年3月16日、栄一が亡くなった後のことでした。
こうした、栄一が修復に力を注いだ浅草寺本堂も、昭和20年3月10日未明の東京大空襲により炎上してしまいました。
現在の本堂は、昭和33年10月17日に再建されたものです。
下写真は現在の本堂です。以前お参りした際に撮影したものです。