栄一の葬儀、青山斎場で執り行われる(「青天を衝け」235)
昭和6年11月11日に逝去した渋沢栄一の葬儀は、11月15日に青山斎場で執り行われました。今日は、その葬儀の様子を書いてみます。葬儀の様子については、デジタル版『渋沢栄一伝記資料』収録の「泰徳院殿御葬儀記録」に詳しく書かれていますので、それを基に書いて行きます。ちなみに泰徳院殿とは栄一の法名です。
11月11日午前1時50分栄一が亡くなると、しばらくした午前3時30分から飛鳥山邸西洋応接室で親族および関係者により葬儀ついて相談が行われ、葬儀委員長に第一銀行会長の佐々木勇之介。副委員長に第一銀行頭取の石井健吾が推され、葬儀を15日午前、式場を青山斎場とすることになりました。
葬儀の前日は午後から降り出した雨が夜には大雨になってしまいましたが、夜が明けた葬儀当日は、朝からすっかり晴れ上がり好天気になっていました。
午前7時から栄一との最後の対面が行われ、8時20分、栄一の柩は霊柩車に移され、遺族も続々所定の車に乗りました。準備された車は43台で、先頭-先駆、2台目・3台目-僧侶、4台目-勲章とともに渋沢武之助・渋沢正雄、5台目-勲章とともに明石照男・渋沢秀雄、6代目-香炉を持った渋沢篤二、7台目-位牌を持った喪主渋沢敬三、8台目霊柩、以後、遺族および関係者が乗り込みました。
定刻の9時ちょうどに出発の喇叭(らっぱ)が高らかに鳴り響き葬、車列は、飛鳥山邸を出発しました。
葬列の進む沿道には、栄一を見送るため多くの人々が並んでいました。
「泰徳院殿御葬儀記録」に、見送った人々について詳細に書いてありますので、これに基づいてそのようすを書いてみます。
飛鳥山邸を出るとすぐに(滝野川)互親会300名、在郷軍人分会170名、次で左側に、滝野川小学校生徒・尋常高等小学校1500名、第一小学校900名、第二小学校1100名、第三小学校900名。東京高等蚕糸学校と農事試験場(現在の花と森の東京病院付近)のあたりには、第四・第五・第六・第七・第八の各小学校生徒が4200名、それに続いて青年訓練所生徒50名、武蔵野女学校生徒50名、それから町役場(現在の滝野川会館)・小学校辺りには、町内団体たる町光会100名、上中里会100名、町名誉職関係300名、それより巣鴨町境まで各種の団体が堵列する。向って右側は町消防組350名、飛鳥山親友会250名、次に部落町内会2500名、九一会50名、正和会50名、親睦会50名、それから東京商科大学々生200名、次には日本女子大学校学生2000名、東京女学館生徒500名、町栄会50名、公正会50名、町青年団300名、町正会500名が並んでいました。
ここに書かれている団体は、おそらく滝野川の町内会などの諸団体と思われます。そして栄一が関係した学校関係者です。ここに書いた人々を合計しただけで1万6520名となります。まさに滝野川町を挙げて見送りに出たと思われます。現在の渋沢史料館から現在の北区と豊島区の区境(滝野川町と巣鴨町の境と仮定した)である霜降橋交差点までの距離を測ってみると約1.5キロです。1.5キロに1万6千人もの人々が沿道に出てきたのですから立錐の余地はなかったと思います。
以前書いたように、栄一が関東大震災で滝野川町への支援も行ったことがこうした町を挙げての見送りのなったのだと思います。ちなみに滝野川町長有馬浅雄は、葬列の車列の一台に乗車していました。
なお、見送りした人たちの中に、東京商科大学、日本女子大学校、東京女学館の生徒がいますが、東京商科大学は、その前身東京商法講習所の時代から栄一が熱心に支援した大学で、現在は一橋大学となっています。さらに東京女学館も、設立時から栄一が関わった学校で、大正13年から昭和5年まで館長を務めていました。日本女子大学校は、現在の日本女子大学の前身で、栄一は創立時からかかわり、昭和6年4月から校長でした。日本女子大学校の生徒たちは、青山斎場の告別式に参列する3名を除いた全校生2千名が早朝校庭に参集して、7時前には飛鳥山に向けて出発したと記録に残されています。
葬列は、護国寺前、江戸川橋、陸軍士官学校正門前、四谷見附、赤坂離宮を通過して青山三丁目を左折して青山斎場に午前九時四十分に到着しました。この道筋にも、多くの人々が見送りに出ていました。
青山斎場の祭壇には、天皇・皇后・皇太后三陛下からの生花が並べられ、その後に秩父宮・高松宮・閑院宮・東伏見宮・伏見宮・山階宮・賀陽宮・久邇宮・梨本宮・朝香宮・東久邇宮・北白川宮・竹田宮・昌徳宮・李鍵公家の十五宮家からの15対が供へられ、仏国大使の生花、米国大使の花環、それから徳川家達の生花、徳川慶光の生花、徳川圀順の生花が並び、フランス大使生花、中華民国公使花輪及び徳川三家の生花が並んでいました。
栄一の葬儀にあたって、供物は固く辞退しましたが、皇室・宮家・外国大使、そして徳川家だけは断ることができないと判断したようです。
勅使到着予定時刻の午前10時に勅使本田侍従が到着し、参列者一同が起立敬礼している中焼香をすませました。そして、午前10時5分には、皇后宮御使野口事務官が到着し焼香、次に午前10時10分、皇太后宮御使西邑事務官が到着し焼香をすませました。
その後、読経が始まり、東京市長永田秀次郎が市民を代表して弔詞を朗読し、次いで日本商工会議所会頭郷誠之助が弔辞を朗読しました。
この弔辞の朗読が終わった後、徳川家達夫妻、徳川慶光、徳川圀順夫妻が順次焼香しました。徳川家達は、徳川宗家の16代当主、徳川慶光は徳川慶喜の孫で徳川慶喜侯爵家の3代目当主、徳川圀順は、水戸徳川家13代当主で、10代藩主徳川慶篤の孫で11代当主昭武の甥です。徳川家の人々が真っ先に焼香したのには、栄一が仕えた徳川将軍家・徳川慶喜・徳川昭武に対する篤い配慮があるように思います。
その後で喪主渋沢敬三が焼香し、以下遺族・親族の焼香がありました。
その後、若槻礼次郎総理大臣を先頭に以下の各大臣が焼香しました。(町田農林大臣、幣原外務大臣・桜内商工大臣・渡辺司法大臣・井上大蔵大臣・田中文部大臣・安保海軍大臣・一木宮内大臣(代理)・小泉逓信大臣・南陸軍大臣)
さらにアメリカ大使、フランス大使・中華民国公使・オランダ公使等の焼香が続きました。
その後、列席者一同焼香し、11時30分に予定通り葬儀を終了しました。
告別式の予定は午後1時からでしたが、正午前には、もう多くの会葬者が集まっており、予定より早く式場の扉を開くと多くの人々が続々と入ってきました。告別の人々の先頭には、告別式が始まるのを待っていた血洗島の人々がいました。血洗島の人々は、零時5分に早くも粛々として質朴なる服装のまま礼拝しました。
この日は、告別者が非常に多くなることが予想されたため、焼香は二人の僧侶が代理して、一般の人々はその前方にて礼拝するだけとしました。それでも、斎場は人で埋もれ、朝野の名士をはじめ、成人はもとより老人・子供、学生などあらゆる人々がお別れにやってきました。その数は2万人とも4万人ともいわれています。実に青山斎場開設以来のことだったそうです。
午後4時、まだ大勢の参拝者がいるなか、柩は斎青山斎場を出発し谷中の墓地に向かいました。
午後4時30分に谷中墓地で埋棺式が始まり、埋葬、焼香、読経等が丁寧に行われ、午後7時30分には喪主の渋沢敬三から挨拶があって埋棺式が終了しました。
下写真は、谷中霊園の渋沢栄一の墓です。
こうして、栄一の葬儀は無事終了しました。
「青天を衝け」は終了し、栄一の葬儀についても書き終わりましたが、栄一の葬儀に関する親族の思い出等、次回以降も渋沢栄一に関することを書いていきたいと思います。引き続きご愛読ください。