渋沢栄一の葬儀を伝える新聞報道(「青天を衝け」236)
渋沢栄一の葬儀は、昭和6年11月15日に執り行われました。今日は、栄一の葬儀を当時の新聞がどう伝えたかについて書いてみます。
県立図書館には、毎日新聞、朝日新聞などほとんどの新聞について過去の記事がマクロフィルムで保存されています。
そこで、渋沢栄一が死去し葬儀が行われた昭和6年11月の毎日新聞と朝日新聞について閲覧しました。
その中で、毎日新聞(当時は東京日々新聞と言った)の11月16日に次のような記事が載っていました。
東京日々新聞 昭和6年11月16日
下賜の菊花香り高く
故渋沢子爵の葬儀
盛儀・会葬者数万
実業界の大御所正二位勲一等子爵渋沢栄一翁の葬儀は夜来の雨名残り晴れた15日午前10時から青山斎場で盛大に執り行われた。
この日午前7時故子爵の遺骸を安置した飛鳥山邸の奥日本間にはかね子未亡人をはじめ喪主敬三氏、令息篤二氏、武之助氏、正雄氏、秀雄氏、阪谷男爵夫人、穂積男爵母堂、明石氏夫妻その他近親居並び、齋壇正面は泰徳院殿靑淵大居士の位牌その両側に両陛下に皇太后下賜の御供物白菊、黄菊の供花、その他を飾り、導師大僧正上野寛永寺住職大多喜守忍は衆僧とともに読経、かくて同9時棺は艤装自動車に移された。
別れを惜しむ家扶、書生、女中等一百余名の嘆き悲しむ声を後に進発、市外滝野川町一帯は弔旗を掲げて哀悼の意をこめ門前には西ヶ原互親会員が居並び邸前から霜降橋までの約八丁にわたる沿道南側には日本女子大二千名、商大五百名、早大五百名、東京女学館五百名、武蔵野女学館百名、 滝野川所在小学校九校一万人、日本少年○○〇盟千二百名および滝野川町内の消防、在郷軍人分会、青年会、婦人会、約二万人が堵列見送りした車列は飛鳥山の邸から駒込駅前を通過し護国寺前から四谷見附をへて同9時40分青山斎場に到着。
ここには定刻前すでに実業界、教育界、社会事業界その他故子爵の徳を慕う人々無慮(むりょ:およその意)万を算した。斎場にはとくに三陛下下賜の三対の菊花が故翁の光栄をかたって香り高く人目を惹いた午前10時勅使本多侍従、皇后宮御使野口事務官、皇太后御使西邑事務官が霊前に参向してねんごろなる焼香あり。
徳川家達公、同夫人、徳川慶光公、同實技子母堂、徳川圀順公の焼香あり、喪主敬三氏をはじめ近親一同焼香、つづいて若槻首相以下各閣僚の焼香あり、東京市民を代表して永田市長、実業界を代表して郷誠之助男爵の弔詞朗読あり、他の数千通の弔詞・弔電、本社の東日社会事業団並びに大毎慈善団を代表して理事長本山彦一氏よりの弔詞を供えた。
葬儀を終了し午後1時から同3時まで一般会葬者の告別式に移ったがその数二万余名に上った。
寛永寺に埋葬
午後4時告別式を終わった故渋沢子爵の遺骸は青山斎場を出発。令嗣敬三氏はじめ近親の人々の自動車に護られて同4時半ころ子爵家の菩提寺上野寛永寺の墓地に埋棺、同6時30分滞りなく式を終わった。
朝日新聞(当時は東京朝日新聞)の11月16日を見ましたが、こちらは毎日新聞ほど大きく取り扱われていませんでした。というのは、東京朝日新聞は、15日に号外で渋沢栄一の葬儀を伝えていたためと思われます。
11月15日の朝日新聞の号外が、デジタル版『渋沢栄一伝記資料』に収録されていましたので、それを転載させていただきます。
東京朝日新聞 号外 昭和6年11月15日
数万市民も告別
巨人葬送の日
きょう渋沢翁告別式
渋沢青淵居士の地下に眠る日15日朝は前夜来の雨はあがったが、滝野川の曖依村荘(あいいそんそう)の木立に宿る露も心なしか涙の様だ。午前7時大多喜寛永寺住職が式僧4名を引具して見えるとやがて奥60畳の日本間にはしめやかに出棺前の読経があげられる、三陛下御下賜の寄せ植の前で親族一同が焼香を済ますと、ひのきの棺は部屋の真中にだされ、今度は最後の告別だ。
面やつれした兼子夫人が、暫し棺の側を離れ得ず、ガラス越しに故人の温顔に接し涙にくれるのも一入哀れに、そちこちからすすり泣きの声がもれる。
9時、玄関から門まで張られた天幕の下に整列した町内在郷軍人団のラツパが奏される時、僧正を先頭に霊柩自動車は静々と滑りだした。
旭日桐花大綬章その他を捧持した武之助・正雄・秀雄諸氏につづいて香炉を手にした篤二氏、白寒冷しゃに包まれた位牌を捧げた喪主敬三氏、金色さんとした霊柩車、黒むくにうなだれた夫人等、次いで近親者、実業界の諸名士等もこれに連り延々とつづく。
滝野川町内は戸毎に弔旗を掲げ、その両側は喪章をつけた町内各小学校児童、虎ノ門武蔵高女・日本女子大・商大・早大の学生等々二万人、その後に町民も総出で悲しい行列の見送りだ。
同町役場前に「謹而送霊柩」の黒わく付大きな立札が目立ち上富士前町に並んだ聖学院中学校生が「吹きなす笛」のラツパと「頭右!」とで見送る
自動車百台、約二十町にわたる行列の進む所、街上、市電上、四つ角…いづれも「財界の巨人」を黙送する市民の敬けんな顔・顔・顔の連続だ、その数無慮三万、順路を経て九時四十分青山斎場に着く。
徳川家達公・関屋宮内次官・永田市長・床次竹二郎氏等二百名許(ばか)りが待ちうけている。
斎場の正面には三陛下からの菊の花の寄せ植、秩父宮・高松宮を始め奉り、各宮家からの生花が白・黄・かばと緑でさびしいかい調をなし、くぢら幕の前には諸大公使の花環も見える、その真ん中に「供物」と「泰徳院殿仁智義譲青淵大居士」の位牌とを前にした黒わくの肖像が、ろうそくの光、両側から放たれる映画撮影用ライトに照され生けるが如く、柔和に微笑んでいる。
正面右側に家達公夫妻・慶光公・徳川公母堂・敬三氏・兼子夫人等親族一同が、左側には市長・矢野恒太・大橋新太郎氏等財政界の名士がひかえれば
10時「勅使!」の前ぶれも厳かに天皇陛下から御差遣の本多侍従、皇后陛下からの野口事務官、皇太后陛下からの西邑事務官がそろつて見え、一同敬礼のうちに懇に香華をたむけて退下、間もなく正面に僧正が進み、両側の約20名の僧りょが一せいに読経を始める。
10時40分永田市長・郷日本商工会議所会頭が弔辞を読み、11時から親族の焼香に移る、徳川家達公・同夫人・公爵御母堂・徳川慶光公・喪主敬三氏の順で進み、少し前に式場に見えた若槻首相がこれに続き、田中・渡辺・町田・井上・幣原等の各閣僚も親族にごして香華をたむける、入沢博士も又この間に焼香をすまして感慨深げに退出するのが人目をひいた。
かくて11時半葬儀は終了、午後1時から一般の告別式に移った、定刻斎場近くは自動車の行列、斎場は後から後からとつづく人垣で受付の三十八個の三宝が見る間に名刺の山を築き、霊柩前の香炉からは、香煙もうもうと立ちのぼる。一般参拝者には礼拝のみを許し、僧りょ二人が代って絶えず焼香しているのだ。この悲しい混雑は、予定より30分延ばした3時半に至るまでもつづき、その数二万人と目され、午後四時斎場出棺、谷中墓地に向った。
東京日々新聞と東京朝日新聞の記事を読んでみて、渋沢栄一の葬儀が盛大におこなわれたことがよくわかり、渋沢栄一の偉大さが改めてわかったように感じました。