親族が語る栄一の葬儀の思い出(「青天を衝け」237)
渋沢栄一が亡くなり、その葬儀を実際に親族として体験した子・孫・曽孫たちが、いろいろなエピソードを、後年、語っています。そして、一様に栄一の偉大さを知ったと述べています。
そこで、今日は、栄一の身近な人々が語る葬儀の様子を書いてみたいと思います。
栄一が亡くなった時には、もう結婚もしていた渋沢秀雄は「父渋沢栄一」の中で、いくつものエピソードを語っています。そこで、最初に渋沢秀雄が語る思い出を並べてみます。
「⑴昭和6年11月11日に父が亡くなったとき、邸内は毎日毎晩弔問客で雑沓した。するとある晩、家の者が庭の植込みに見馴れない中年男を発見した。その人は紋付袴で、暗がりの落葉の上に端座していた。
その語るところによると、彼は以前不幸な境遇から院児として養育院に収容されていたが、現在は小さいながらもある工場の持主となって、相当に暮らしている。それにつけても、むかし院長から受けた恩情が忘れられないので弔問にきたものの、名乗って出るほどの身柄でもないため「こうして余所ながらお通夜をさせていただいております」というのだった。
この話を聞いた家の者は、有りがたい志に深く打たれ、さっそく座敷へ招じ入れて父の柩(ひつぎ)の前に案内した。むろんその人は心ゆくまで通夜をしていってくれた。もし家の者が発見しなかったなら、彼は人知れず来て人知れず去ったに違いない。
⑵葬儀委員の申合せで、香典、供華などは一切辞退した。折角それを持ってきて下さった方も、固辞する側も、「不本意」と「恐縮」の鉢合せに困却した。しかしそういう方々の芳志は、米寿祝賀会で郷誠之助氏の提案された、父の記念事業財団が後日設立された際に、それへの寄附金となってあらわれた。
皇室関係の榊やおもりものは、臣下の分としてお断り申上げるわけにはゆかなかった。だから父の柩は、それらの品々に飾られた。あとは同族の供華と、養育院児童からきた手紙の堆積だ。この堆積はみな、いたいけな文面の見舞状や悔み状ばかりである。これは周囲と一つの対照をなして印象的だった。
⑶11月15日に青山斎場で葬儀がおこなわれた。霊柩車の通る沿道のそこかしこに、学校その他の諸団体が整列しておられた。そして告別式への参会者は四万人をこえた。
⑷昭和6年はプロレタリア運動が盛んになりはじめた時代である。私は短歌雑誌「アララギ」の中に、ある日ゆくりなくも、渋沢栄一翁の逝去を悼む、という前書付きの一首を発見した。残念ながら作者の名は逸した。
資本主義を罪悪視する我なれど
君が一代(ひとよ)は尊くおもほゆ
父が誠実に働き通した幅の広い一生は、人生観、社会観、国家観のちがう若い人にも、この歌のような例外的共感を呼びおこしたのであろう。
対立する世界や階級の間に「人間愛」の橋をかけ得る人は尊い。人間愛を置忘れた利害打算や権利主張の正面衝突ほど、幸福の「青い鳥」を追い散らしてしまうものはほかにあるまい。」
渋沢秀雄が語るそれぞれのエピソードが印象的ですが、とりわけ養育院で世話になった人が植え込みででもお通夜をしようと思って飛鳥山邸にやってきた話とプロレタリア運動を奉じると思われる人が詠んだ和歌の話に感銘を受けました。
12月7日、テレビ朝日「林修の今でしょ!講座」で「渋沢栄一」の特集を放映しました。その中で、渋沢栄一の孫の鮫島純子さん(栄一の三男正雄の次女)が98歳のお元気な姿で渋沢栄一の思い出を語っていました。
鍋島純子さんは、栄一が亡くなった時、9歳だったそうですが、それまでは栄一がどんな仕事をした人かもまったく知らなったそうです。しかし。亡くなる直前に偉大さを知ったと次のように語っていました。
「あの当時、まったく珍しいことですが、新聞に毎日、今日の子爵の熱はどう、脈はどう というのが出たんですね。これはどうも普通の人ではないなぁと気がついた」
そして、青山斎場へ向かう車列の映像が映し出されつつ鮫島純子さんが「お葬式の時が普通ではないなぁ。とにかく長い列を作って青山斎場まで御練り(おねり:ゆっくり行進すること)をして、各学校の生徒さんが道路に出てお参りをしてくれるんですね。」と葬列を多くの人が見送ってくれたことにびっくりしたと語っていました。
そのあと、青山斎場での告別式の映像をバックにナレーションが「葬儀場までの沿道を多くの人が埋め尽くした。政治家や実業家などの著名人から一般の市民まで、みんなで渋沢の冥福を祈ったのです。」と語りました。
鍋島純子さんは、生前の栄一を直接知っている数少ない人ですが、上品な語り口で栄一の思い出を穏やかに語っていて、とても印象的なインタビューでした。
鮫島純子さんが驚いた沿道で多くの人々が見送りしている光景には、ほかの孫や曽孫たちにも同じように驚いたようです。
まず、曽孫の渋沢雅英さんは「父渋沢敬三」の中で次のように語っています。渋沢雅英さんは現在96歳ですが、「青天を衝け」最終回の「青天を衝け紀行」に登場されていましたが、栄一が亡くなった時は6歳でした。
「栄一の葬式は個人の葬儀としては未曽有の盛儀であった。霊柩車の後に喪主である父(渋沢敬三のこと)の車を先頭に、何十台もの自動車がつづいて葬列を作った。五台目ぐらい後に小学生の私も母と一緒に乗っていたが、飛鳥山から青山斎場まで長い道筋の両側に、たくさんの学校や団体の方がたがびっしりと並んで見送って下さるのを見てすっかり驚いてしまった。」
また、渋沢秀雄の娘渋沢華子は「徳川慶喜最後の寵臣 渋沢栄一―そしてその一族の人びと」の中で次のように語っています。
「葬儀の日、祖父の霊柩車を先頭に遺族の車の長い列が門を出た。沿道の両側に粛々として人々が並び長蛇の列が続いている。遺族車の中から垣間見ていた私は、その行列の長さにとにかくたまげた。 そして私と同年のような小学生たちの一群が列をなして頭を下げている。私は、遺族車の中にいる自分の存在が、気恥ずかしくなった。中里町を過ぎて巣鴨町の境まで、栄一が関係した各種の団体職員、学校の生徒たちの弔意の行列が続いていた。」
孫たちも栄一を見送る人々があまりにも多いので、おじいさんの偉大さを実感したようです。
「林修の今でしょ!講座」でも林先生を初め出演者が異口同音に「渋沢栄一のすごさに驚いた」と言っていたのも印象的でした。