栄一、貞明皇后からの恩賜を賜る(「青天を衝け」238)
渋沢栄一の死去に対して三陛下から勅使や御使が遣わされました。そして、栄一が亡くなった11日午後には皇太后陛下(大正天皇の皇后である貞明皇后)からは「慈恵会や東京市養育院に対する渋沢の心尽しを大変喜んで居た。また癩患者の救恤については色々と心配して居たが、この時に際し渋沢を亡(うしな)ったことは返す返すも惜しいことである。」との御言葉があり、さらに皇太后陛下より御料理50人前の御下賜がありました。
これに示されたように栄一が亡くなった際に皇室から賜った恩賜は篤いものがありましたが、これ以前にも、明治天皇の皇后である昭憲皇太后から東京養育院に対する下賜金を賜っていますし、昭和天皇からは、昭和4年12月11日、「単独御陪食」を賜っています。
こうした明治・大正・昭和三代にわたる皇室からの恩賜の中で、特に大正天皇の皇后である貞明皇后からとりわけ多くの恩賜があります。そこで、今日は、栄一が貞明皇后から賜った恩賜について書いていきます。
栄一が、初めて貞明皇后に拝謁したのは、大正6年1月18日でした。
この日、栄一に対して宮中からお召があり、参内すると東京養育院の収容者に対して菓子料として皇后陛下から金500円が下賜されることが伝えられ、その後、皇后陛下に拝謁が許され、養育院の現状についていろいろ御下問がありました。
この光栄に対して栄一は大変感激して、拝謁後「戴恩の記」という文書を作成し、関係者に配布しています。
その「戴恩の記」を読むと、栄一の感激の様子がわかりますので、それを紹介します。「戴恩の記」は、明治時代の文章で読みにくいので、私なりに現代文風に変えてご紹介します。原文は、最下段に参考に掲載しておきますので、原文を読まれたい方はそちらをご参照ください。
「大正6年1月16日皇后宮大夫(こうごうぐうだいぶ:皇后職の長官)男爵大森鐘一君が東京市養育院視察のために大塚本院に訪問された。大森男爵が言うには、「養育院の事について皇后陛下よりたびたび御下問があるため、一応視察しておきたいので訪問した」ということでした。そこで私は事務員とともにこれを迎えて、まず養育院本院の各部および病室・医局を始め食堂・炊事場にいたるまて隈なく案内したところ、大森男爵はことこまかく調査されて、次に巣鴨分院にいたりて児童教養の実況も熱心にご覧になりました。ちょうどこの日は「藪入り」の日で、当分院より出て各商店・工場等に勤仕している青年が数十名、宿下(やどさがり)して戻ってきていて、養育院にいる児童たちもさまざまな遊戯をして、先輩ととともに嬉々(きき)として楽しんでいるのを見て、大森男爵は養育院に大変興味を持たられた様子でありました。養育院内の視察が終わった後、私は大森男爵に向かって養育院創立以降今日に至るまでの沿革、現在の状態、将来の希望をも詳細に説明したところ大森男爵は一つ一つ了解して帰られました。
皇后宮大夫の視察だけでも、養育院の実情が皇后陛下のお耳に達することができる良い機会だと思って感謝にたえないと思っていたところに、思いもかけず16日栄一に参内せよとの御召ありました。その日の午後怖れ多くも宮中に伺候したところ、大森大夫より皇后陛下の思召が伝えられて、「かしこくも皇后陛下には深く養育院の窮民および児童に対する皇后陛下の考えから、養育院一同に対して御菓子料金五百円の下賜がある」ことが述べられたうえ、辱(かたじ)けなくも私に拝謁を賜わるとのことなので。私は皇后陛下の御前に伏して恭(うやうや)しく御礼を申し上げたところ、皇后陛下は「養育院の設備が整っていることを満足に思っている」との御詞を賜わり、私に対して「養育院の仕事に従事して何年になるか」、また「年齢はいくつか」との御下問ありました。私は、かしこまりつつ「養育院に関わって43年間になります。年齢は78歳です」と答え申し上げたところ、「それは思っていたよりも高齢ですね。特別に永年の尽力に対して感激しています。見たところ年をとっていても益々元気であるようですね。これからも長く健康を保って養育院の仕事に精励し、可哀そうな人々のために尽力してください」という辱(かじけな)いお言葉を賜りました。私は皇后陛下のお言葉に心がこもっているうえ温かく懇ろなお気持ちに大変感激して御前を退出しました。(後略)」
この栄一の「戴恩の記」のうちの特に栄一に拝謁を許した後の栄一とのやりとりを庶民的なやりとりとして下記のように替えてみます。
貞明皇后の「養育院に関与して何年たちますか、また年齢は何歳ですか」という質問に対して、栄一が「43年です。78歳になります。」と答えたところ、「それは思っていたより年を取っているんですね。見たところ年をとっていても元気そうだから、これからも頑張ってください」と答えています。
こうしてみると、貞明皇后は非常に心優しい人であり、また庶民の事情にも通じている方のように感じます。
貞明皇后は、この時だけでなく、その後もしばしば栄一に拝謁を許しています。
大正11年12月に皇后宮大夫大森鐘一が東京養育院の中の井之頭学校を視察し、その翌々日、皇后陛下に拝謁しています。
この時、貞明皇后は、井之頭学校の生徒の工芸製作品や農科生産品を見て満足したとの御言葉あり、養育院創立五十周年記念式の際献上した渋沢栄一が書いた「回顧五十年」を御覧になっていて、過去48年間絶えず養育院経営の任に当りたる栄一の労をねぎらうとともにこれからも育院のため人道のため永く努力して欲しい」との激励の御言葉もありました。しかも、30分の拝謁の間、貞明皇后は栄一に対して茶菓を賜わり、たったままの栄一をみて、再三椅子にすわように勧め、さらに、特別の思召をもって紅白縮緬各一巻及御紋章付高蒔絵手箱一箇を下賜されたそうです。
そして、大正12年6月には、4日に大森皇后宮大夫が養育院の安房分院を視察しました。それに対して、栄一が6月18日に御礼言上のため皇后職へ出頭したところ、貞明皇后がこれを聞いて拝謁を仰せつけ、約30分間に亘ってお話をされています。
さらに、大正15年6月30日には、皇后宮大夫大森鐘一が飛鳥山邸に遣わされ、宮中紅葉山の養蚕所で生産した真綿一包と白絹一巻が貞明皇后から下賜されました。翌日、栄一が御礼言上のため宮中に参内したところ、貞明皇后は、今回も栄一に拝謁を許し、親しくお話をしています。
このように、栄一は貞明皇后から数多くの恩賜を賜っています。貞明皇后は、明治天皇の皇后の昭憲皇太后、そして昭和天皇の皇后香淳皇后に比べると、あまり目立たないように思いますが、今でいう「社会公益事業」に熱心に取り組んだ皇后陛下であったようです。機会をみて貞明皇后についても書いてみたいと思います。
【参考 戴恩の記 渋沢栄一著 大正六年刊】 (デジタル版『渋沢栄一伝記資料』第30巻より転載)
大正六年一月十六日皇后宮大夫男爵大森鐘一君我か東京市養育院視察の為に大塚本院に来臨あり、曰く当養育院の事について皇后陛下より度々御下問を蒙れるにより、一応視察し置きたけれは参りたりとの言なりき、よりて余は事務員と共にこれを迎へて、先つ本院の各部及病室・医局を始め食堂・炊事場に至るまて隈なく案内したるに、大夫は細心に調査せられ、次に巣鴨分院に到りて児童教養の実況をも熟覧せられたり、恰も好し是日は藪入りの日にて、当分院より出てゝ各商店・工場等に勤仕せる青年輩数十名、宿下として来合せ居り、且在院の児童も様々の遊戯を為して、先輩と共に嬉々として楽しめるをも目撃せられしかは、大夫はいと興あることに思はれし様なりき、院内の一覧畢りて後、余は大夫に向ひて本院創立以降今日に至るまての沿革、現在の状態に加へて、将来の希望をも詳細に説明しけれは、大夫は一々領承して帰られたり、皇后宮大夫の来観のみにても、本院の実況か
皇后陛下の御聴に達すへき機会なりと思ひて感謝に堪へさりしに、思ひもかけす其十八日栄一に参内せよとの御召あり、其日の午後謹みて宮中に伺候せしに、大夫より思召を伝へて、かしこくも
皇后陛下には深く養育院の窮民及児童に叡念を垂れさせられ、一同に対して御菓子料金五百円の恩賜あらせらるゝ旨を宣せられ、且つ辱けなくも栄一に拝謁を賜はるとの事なりけれは、栄一は 御前に伏して恭しく御礼を言上し奉りたるに
陛下には養育院の設備の整へるを満足に思召すの御詞を賜はり、栄一か院務に従事せしより幾年になれりや、又栄一の年齢は幾歳なりやとの御下問あり、余は恐懼しつゝも勤務は四十三年間にて、馬齢は七十八歳と答へ奉りしに、そは思ひしよりも高齢なり、別して永年の尽力を感し思召す、見受くる所老いて益壮健なるらし、尚久しく健康を保ちて院務に精励し、可憐の者共の為に尽瘁せよとの辱き慈訓を賜はれり、余は懿旨の懇篤なると慈恩の優渥なるとに感泣して御前を退きたり、乃事務員とも相謀りて、此辱き恩賜を在院者一同二千五百四十五名に頒給すると共に、中心に包ミかねたる喜悦の情を記述し、此恩賜を拝受する人々に皇后陛下の洪大なる坤徳を仰かしめむと欲するなり
大正六年一月二十五日