栄一、男爵を授けられ華族となる(「青天を衝け」239)
渋沢栄一が亡くなった際の爵位は子爵でした。実業界で子爵まで授けられた人物は栄一だけでした。三井・三菱・住友などの財閥当主でも男爵どまりでした。栄一の実業界での功績がいかに大きかったかを表す一例だと思います。
栄一が子爵を授けられたのは大正9年ですが、それ以前の明治33年に男爵を授けられています。そこで、今日は、栄一が男爵を授けられ華族に列せられたことについて書いてみます。
渋沢栄一は、還暦を迎える明治33年の5月9日に男爵を授けられ華族となりました。
「渋沢栄一日記」には、「昨夜三宮(さんのみや)式部長より通知ありて、本日9時30分授爵相成るににつき参内の事を申し来る、よって午前9時30分大礼服着用、宮城にいたる。東御車寄より昇殿す。暫時休憩して後、数間を越て奥殿に召され、華族に列せらるるの宣旨を宮内次官より授与せらる。後更に美麗なる一室にいたりて、男爵を授けらるるの宣旨を宮内大臣より授与せらる。(後略)」と書かれています。
栄一は、勲章や爵位というものは、政治分野で功績を遺した人物が授けられるもので、実業界にあるものが華族になることはありえないと考えていました。そのため、栄一自身が華族になるとまったく思っていませんでした。ですから、栄一にとっては最初は戸惑いもあったようですが、実業界全体として評価されたものと考え大変喜んだことを後年栄一自身が語っています。(※下記赤字部分参照)。
「私の還暦に当たる明治33年(1900)5月、大正天皇御婚儀の盛典を挙行あらせられた際ー私は授爵の忍命を拝したのであるが、これは実に思いがけないことであった。
私は、たびたび申したごとく、明冶の初年官途に在ったが、深く列国の形勢に稽(かんがえ)うるところあって、我が国をして将来列国と対峙せしむるには、我が商工業を発達せしむるにしかずと信じて、明冶6年(1873)、官を辞して民間にくだった。
もとより、資力も学問も足らぬからして、はたしてどの程度に進むかは分からなかった。しかし、政治というものは、実業から生まれてこなければならぬものである。政冶は、実業を助ける機関である。実業は主にして、政治は客である。
政治のために実業で金を儲けて、その金で政治を拡張するというがごとき精神では、日本はとても発達はしないということを、私はよほど強く覚悟したものである。ゆえに、私は、政冶界に希望を全然打ち捨てて、爾来(じらい)、一向(ひたぶる:いちずの意味)に商工業に従事し、政治に関することのついては、すべて物もいわず、手を染めぬということを、深く期念(きねん)したのである。かように、覚悟を堅く定めたため 、政治上の名誉を与えられるはずもなく、また受くべきものでもないと観念したのである。
ゆえに、爾来、30年の間、商工業以外の事柄については、カ(つと)めてこれを避け、また厳にこれを防ぐということにしていた。日本のその間の有様では、勲章とか爵位とかいうものは、すべて政治に関する名誉であって、商売に関する名誉ではないと諒解しておった。それゆえに、授爵の恩命は、実に予期せぬ事柄であったから、これを拝受するにも、よほど躊躇(ちゅうちょ)したような訳であったのである。
どういうご趣意から、かかる恩命が出たかということを、まったく理解し得なかったので、一布衣(官位のない人)の身をもって、授爵の恩命を拝したのには、実に意外の感を抱き、恐懼(きょうく)おくところを知らなかった。商業会議所、銀行集会所、商工業諸会社の人たちが、私を招待して授爵祝賀宴を催されたのであるが、私はその祝賀を忝(かたじけの)うして喜ぶよりは、むしろ恐縮するほかなく、 かえって心苦しく感じたのである。
しかるに、その人たちが、私の授爵の恩命は、商工業に力を尽くし、事業の発達に勉励したために、そのことが天聴(てんちょう)(天皇がお聴きになること)に達したのであるという解釈をされてから、はじめて、いささか心に安んじることが出来た。
しかも、私に対する授爵の祝宴は、ただ独り私の光栄を祝せられるばかりでなく、我が国の商工業の地位と信用とを高うした証拠であるから、商工業のために祝すべしとの趣意に出でられたものであることを知って、はじめて宴に列し、祝賀を受くることを満足し、かつ歓喜したのである。」(「渋沢栄一92年の生涯夏の巻」(白石喜太郎著)の「授爵の恩命」より)
ここで、栄一が授けられた華族とはなにかについて中公新書「華族」(小田部雄次著)や「華族誕生」(浅見雅男著)を基に書いてみます。
華族が最初に制定されたのは、明治2年6月17日のことで版籍奉還と同じ日です。
この日、太政官達54号「公卿諸侯の称を廃し華族と改む」により、従来の公卿・諸侯の名称を廃止して、華族と称されることになりました。
華族とは、明治以前までは、摂家に次ぐ第2位の家格である清華家の別称でした。華族制度の策定にあたった伊藤博文は「公卿」、広沢真臣・大久保利通・副島種臣は「貴族」、岩倉具視は「勲家」・「名族」・「公族」・「卿家」などの案を主張しましたが、最終的に「華族」となりました。ただ、華族という名称が採用された理由ははっきりとしていません。
華族には、「公爵」「侯爵」「伯爵」「子爵」「男爵」の五階の爵位がありますが、これは、明治17年7月7日に制定された「華族令」によるものです。
「公爵」「侯爵」「伯爵」「子爵」「男爵」は、「五経の一つである『礼記』の王制編の冒頭に「王者之制禄爵 公侯伯子男 凡五等」とあり、『孟子』にも周の爵禄に『公侯伯子男』の別があるとされている」(小田部勇次著 中公新書「華族」より)ことにならったのでした。
華族になることができたのは、江戸時代の公卿と大名であったもの、さらに明治になって維新や近代化に大きな功績をあげた人々でした。
これらの人たちが「公爵」「侯爵」「伯爵」「子爵」「男爵」のどれに授爵するかは「叙爵内規」によって定まっていました。
「叙爵内規」によると男爵は「〇一新後華族に列せられたる者、〇国家に勲功ある者」に授けられ爵位で、「よほどの功績がないかぎり、一新後に華族に列せられたものは男爵からスタートしたのである。」(浅見雅男著「華族誕生」より)
栄一は、維新前には公卿でも大名でもありませんでしたので、まず男爵を授けられたのです。しかし、官尊民卑の考えが強く、実業界のことが依然として卑しいものという考えが強かった明治時代では、実業界出身の渋沢栄一が男爵を授けられ華族となったことは画期的なことでした。
冒頭書いたように栄一は男爵からさらに子爵になっていますがので、次回、子爵を授けられたことについて書きます。