栄一、勲功により子爵となる。(「青天を衝け」240)
栄一が子爵となったのは、大正9年(1920)9月4日のことです。この年、栄一は80歳でした。男爵となったのが明治33年(1900)還暦の歳でしたので、ちょうと20年たった傘寿のおめでたい歳におめでたいことが重なったことになります。
爵位が上がることを「陞爵と言います。
「陞爵」の「陞」の意味は「高くのぼること」や「地位をあげること」を意味します。当用漢字では「昇」にあたります。
ですから、現代の私たちにとっては「昇爵」と書いたほうが理解しやすいと思います。
9月4日、栄一は、陞爵(しょうしゃく)」の御沙汰を宮内大臣(代理)から受け取り、その翌日の5日午前7時上野駅発汽車にて日光に行き、日光御用邸に避暑中の大正天皇に御礼のため伺候(しこう)し、その日の夕方帰京しています。
「渋沢栄一92年の生涯 冬の巻」(白石喜太郎著)によれば、栄一は次のように語ったと書いてあります。
「男爵に列せられたことさえ、すでに身に余る光栄でございますのに、さらに陞爵の御沙汰を蒙ったことは、ただただ恐懼(きょうく)の外はありません。
実は去る2日、原首相から、お前の実業界に貢献したことはいまさらいうまでもないが、実業界を去ってからも、公共事業に尽くした功績は世間もすでに十分認めている。
国家としてもこれを認めない訳にいかぬから、目下、畏(かしこ)き辺(あたり)に奏請している次第もあり、いずれ近く御裁可のあることと思うとのお言葉に、自分は恐縮して引き下がった次第でありますが、今日午前11時、電話で宮内省からお呼び出しがあったので伺候(しこう)すると、陞爵(しょうしゃく)の御沙汰が御座いました。ただただ感激の外はありません。
私はかかる恩命を拝すると否とにかかわらず、君国に対する奉公の誠心に厚薄の変わりはないのですが、何ら功なき私のことが天聴(てんちょう)に達したということに対しては、 人情の自然として感激に堪えない訳でございまして、今後はいっそう国家のために尽くし、鴻恩(こうおん)を空(むな)しうすることなきを期しております。」
「人情の自然として感激に堪えない」と述べているように、栄一は素直に陞爵(しょうしゃく)を喜んでいます。
前回書いたように、華族は、「公爵」「侯爵」「伯爵」「子爵」「男爵」の五段階の爵位がありました。
そして、それぞれの爵位に叙する基準が「叙爵内規」に定められています。
「華族誕生」(浅見雅男著)をもとに基準をまとめると次のようになります。
⑴公爵に叙せらるべき者
①親王諸王より臣位に列せらるる者 ②旧摂家 ③徳川宗家
④国家に偉勲ある者
⑵侯爵に叙せらるべき者
①旧清華 ②徳川旧三家
③旧大瀞知事(即ち現米15万石以上)
④旧琉球藩王 ⑤国家に勲功ある者
⑶伯爵に叙せらるべき者
①大納言迄宣任 (直任)の例多き旧堂上
②旧中藩知事(即チ現米5万石以上)
③国家に勲功ある者
⑷子爵に叙せらるべき者
①一新前家を起したる旧堂上
②旧小藩知事(即ち現米5万石未満)及び一新前旧諸侯たりし者 ③国家に勲功ある者
⑸男爵に叙せらるべき者
①一新後華族に列せられたる者
この「叙爵内規」に定められた基準に基づいて、旧公卿や旧諸侯が華族に列せられました。さらに、旧公卿や旧諸侯のほか、「国家に偉勲ある者」(公爵の場合)、「国家に勲功ある者」(侯爵・伯爵・子爵の場合)も華族に列せられました。
旧公卿や旧諸侯は、維新前の公卿としての家格や諸大名としてその領地の石高により爵位が決定されますので、ほとんど陞爵(しょうしゃく)はありませんでした。
しかし、勲功により華族となったものの場合は陞爵(しょうしゃく)がありました。
栄一が子爵を授けられた時の御沙汰には「依勲功特陞授子爵(勲功により特に陞りて子爵を授ける)」と書いてありますので、勲功によって陞爵(しょうしゃく)し子爵を授けられました。
さて、栄一が授けられた子爵がどのような爵位であったかについて、私なりに考えてみました。
「叙爵内規」を見ると、明治維新前に公卿や大名であった人たちは、すべて子爵以上となり、子爵は、小藩の大名や下級公卿が子爵になったようです。ですから家柄だけで華族となった人たちの中では、子爵はあまり高い爵位ではありません。
しかし、勲功で華族となった人たちでみると相当の高さとなります。
勲功によって、最も高い公爵となったのは伊藤博文(侯爵から公爵に陞爵)、山県有朋(侯爵から公爵に陞爵)、大山巌(侯爵から公爵に陞爵)などあります。
侯爵は、大久保利和(大久保利通の子)、木戸正二郎(木戸孝允の子)、井上馨(伯爵から侯爵に陞爵)、大隈重信(伯爵から侯爵に陞爵)、西郷従道(伯爵から侯爵に陞爵)、小村寿太郎(伯爵から侯爵に陞爵)などです。
伯爵は、板垣退助、黒田清隆、副島種臣、陸奥宗光などです。
子爵は、多数いますが、比較的名が知られている人としては、品川弥二郎、児玉源太郎、谷干城、森有礼などがいます。
このように見てくると勲功で華族となった人はかなりいて、しかも伯爵以上になった人もかなりいます。しかし、薩長土肥の出身者が多いことが特徴です。詳細に調べたわけではありませんが、薩長土肥出身者以外で伯爵以上になったのは勝海舟などごくわずかだと思います。
やはり明治維新が薩長中心に実現し、明治政府は薩長土肥出身者が多かったことが影響しているように思います。
こうした薩長土肥優位の中でも、少数ながら旧幕臣でも華族になった人たちがいますので、旧幕臣で華族になった人たちをみてみます。
その最高位は伯爵で、勝海舟が伯爵となっています。そして、榎本武揚、大久保一翁、山岡鉄舟は子爵となっています。勝海舟、榎本武揚、大久保一翁は、いずれも政治の世界で活躍していますし、山岡鉄舟は明治天皇の侍従として活躍しました。
なお、男爵となった旧幕臣は、赤松則良、大鳥圭介、松本良順などがいます。
こうしてみてくると勲功で子爵以上の華族となっている人は、ほとんど、政治家や軍人で、しかも薩長土肥出身者です。
渋沢栄一は、政治家・軍人でない、しかも薩長土肥出身者でないという点できわだった存在となります。
また、実業界出身者の爵位を見てみると、子爵が非常に高い爵位であることがわかります。
実業界出身者である岩崎弥之助、三井高棟(たかみね)、住友友純、鴻池幸方、大倉喜八郎、古河虎之助(古河市兵衛の子)はすべて財閥の当主ですが、これらの人々が授けられた爵位はすべて男爵です。
つまり、財閥当主であっても子爵を授けられた人はいないということです。
以上から、渋沢栄一が子爵になったということは、実業界出身者としては最高位であり、旧幕臣としてもあまり例をみないことと言えると思います。それだけ栄一の功績が大きかったということを表していると思います。
なお、栄一の長女歌子の夫穂積陳重は男爵、次女琴子の夫阪谷芳郎は子爵となっています。栄一の婿たちは自分たちでも法学あるいは政治の世界で大きな功績を残しているということを付け加えておきます。