栄一、松平定信を顕彰する。(「青天を衝け」こばれ話1)
渋沢栄一は、養育院の院長を死ぬまで勤めました。しかし、栄一が養育院に関わるようになったのは、偶然のことだったと栄一自身が語っています。これは栄一が大蔵省を退官した後、当時の東京府知事であった大久保一翁から松平定信が始めた七分積金を引き継いだ共有金の取締を依頼されたことがきっかけでした。
「東京市養育院創立五十周年記念回顧五十年」(デジタル版『渋沢栄一伝記資料』第24巻収録)の中で、栄一が次のように書っています。
「(一 養育院の濫觴 略)
二 当初の救助資金は楽翁公(松平定信のこと)の七分金
当時東京府の手には共有金の名をもって一種の資金が保管されてあった、これは寛政年中時の賢宰相たりし、奥州白河の城主松平越中守定信、即ち白河楽翁公が江戸の町政を改革し町費を節約してその剰余を積立て、さらに官金を下付して備荒貯蓄資金とし、永久にこれが増殖を図からしめたるいわゆる七分金の後身であつて、維新後これが東京府に引継がれて府の共有金となったのである。しかして府はこの共有金を利用して諸般の公益事業すなわち市内各所の橋梁修理とか、または共同墓地の仕事とか、瓦斯(ガス)事業の設備とか、商法講習所の補助とかに提供していたのであるが、養育院事業もまたその創始の際においては資源をこの共有金に仰いだのである。
三 余と養育院との関係は明治7年より
養育院の創立せられたるは前述の通り明治5年であるが、余が養育院に従事するやうになつたのは、明治7年、すなわち今より48年前であった、ただし当初から養育院長に任ぜられたのではなく、前述の七分金の取締方を府知事から依託せられて、遂にこを財源として土木其他諸般の公益事業を経営する営繕会議所の事務にも参加することとなった。しかして養育院もこの営繕会議所経営の一事業であったため、当然本院との関係が結ばれたのである。」
このように、栄一は、東京府の共有金の取締となったことから養育院に関係するようになりましたが、この共有金は松平定信が始めた七分金(※1)に基づくものであったため、松平定信の功績を知り、松平定信に対する尊敬の念を強くしました。※1栄一は七分金と書いていますが、多くの場合七分積金と呼ばれています。
そのため、栄一は月一回養育院に行くようにしていましたが、養育院を訪ねるのは、松平定信の命日である13日としていました。ちなみに松平定信が亡くなったのは文政12年(1829)5月13日です。そして養育院では、毎年5月13日楽翁公祭を開催し、養育院の慈善バザーは5月13日前後に開催することとしていました。
このように養育院の経営に深く取り組むにつれ、共有金の原資となった七分積金を創設した松平定信のことを深く理解し、かつ松平定信を尊敬するようになりました。そして、松平定信を顕彰する事業に熱心に関与するようになりました。そこで、今日は、栄一が関わった松平定信を顕彰する事業について書いていきます。
昭和4年に「楽翁公遺徳顕彰会」を設立して栄一が会長となり、総裁は徳川家達に栄一からお願いして就任してもらいました。北区の渋沢史料館には、その時の徳川家達からの就任を応諾した手紙が展示されています。
「楽翁公遺徳顕彰会」が設立された昭和4年は、松平定信が亡くなってから百年目の「百年忌」にあたりました。そこで、昭和4年(1929)6月14日(※2)に、深川の霊巌寺で「楽翁公百年忌墓前祭」を楽翁遺徳顕彰会主催で開催しました。(※2、松平定信が亡くなったのは文政12年5月13日ですが、これを新暦に直すと6月14日になります)
この墓前祭には、総裁徳川家達、会長渋沢栄一はもちろんですが、松平定信の子孫にあたる松平定晴夫妻も参列しています。ちなみに松平定晴は、幕末の桑名藩主で京都所司代となり徳川慶喜を扶けた徳川定敬(さだあき)の子供で松平家16代当主です。下写真は霊巌寺にある松平定信のお墓です。
墓前祭の後、丸ノ内東京商工奨励館で行われた記念講演会で栄一は次のように語っています。
「私が公を知ったのは明治7年東京府共有金の取締の事を、時の府知事大久保一翁氏から申しつけられてからでありまして、諸君よりも確かに古いと憚(はばか)りなくいい得ると思います。従って私としましてはこの金を如何(いか)に処理したらよいかと考えねばならぬ地位に立つ事になりましたが、しからばこの金はどこから出たかと調べて見ると、これは楽翁公の経営せられた、例の七分金と称する江戸市中の積立金でありました。公は特に申述べるまでもなく、政治上非常な緊縮方針を執られ、節倹を勧められ、自ら実行した方であります。そこで当時の江戸における各町の費えをも節約せしめることとし、町奉行と相談の上、年々の経費を出来るだけ節して、その一分を給与金に振当て、二分をこの経費を納めた人に割戻し、そして残り七分を積立て利殖したのであります。すなわちこの資金はあるいは貸金とし、または土地を買入れ、さらに穀類をも買持ちして、資金の維持と増殖とを図った。これが七分金と名づけられたもので、明治維新後総額百五・六十万円が東京府に引継がれて共有金となっていました。私はかような楽翁公の余徳を知り、公がただの政治家でなく、経済的にも社会的にも充分手腕のある方であると覚ったのであります。そして共有金取締を申付けられるより前に、私は養育院の事業を引受けて微力を致すことになっておりましたが、その経営上の費用を共有金から支出しました、ゆえに現在の東京市養育院は楽翁公あったればこそ今日の壮大なる規模を有するに至ったのでありますから、公の命日たる5月の13日には毎年必ず楽翁公祭を養育院内で開いております、また共有金はこの外に只今の商科大学の前身たる、商法講習所とか、瓦斯会社となった瓦斯局とか、東京府市庁舎、その他道路・橋梁・墓地等諸設の公共事業に用いられたのであります。」
そして、その後、松平定信が本所の吉祥院に納めた心願書の話をした後、
「松平楽翁公は各方面にゆきわたって実に秀れたお方でありましたから、公の事績を永く世間の人々に伝えたく、とりわけ東京市民は公から直接の恵みを受けているのでありますから、公の人となりを知っていていただきたいと思うあまり、私どもが打ち寄ってこの度この遺徳顕彰会を組織した次第であります。」と述べています。
栄一は、楽翁公遺徳顕彰会での顕彰だけでなく、福島県白河市にある松平定信をご祭神とする南湖神社の創建にも協力しています。下写真は南湖神社のご厚意で南湖神社のホームページから転載させていただきました。
(南湖神社参道)
大正5年5月11日、福島県白河町の町長と有志が栄一を訪問し、「楽翁公奉祀表徳会」を組織して、南湖神社建立したいという計画を披露しました。これに対して栄一は賛同し、「楽翁公奉祀表徳会」の総裁に就任しています。
南湖神社は、大正11年6月に竣工し鎮座祭が行われ、栄一は、前日の神体遷座式から参列しています。南湖神社の鳥居の額や社号標は栄一の筆跡が使われています。
また、大正14年5月には、橋本永邦筆白桜図と下村観山筆紅楓図を寄進しています。さらに、昭和2年に設立された南湖神社奉賛会の総裁にも就任し亡くなるまで勤めていました。
こうした栄一の功績を顕彰する石碑が南湖神社の境内に建てられているようです。
南湖神社さんのホームページとリンクさせていただきました。南湖神社と渋沢栄一との関係も詳しく書かれています。ご興味のある方はすぐ下の南湖神社ホームページ欄をクリックしてご覧ください。
さらに、栄一は、松平定信の伝記「楽翁公伝」の編纂も行っています。「楽翁公伝」が刊行されたのは、昭和12年11月で、栄一が亡くなった後でしたが、亡くなる直前の昭和6年7月~8月には、稿本ができあがり、栄一がそれを読むことができました。そして、「自序」を口述筆記させています。
そのため「楽翁公伝」の冒頭には栄一の自序が記されています。
その自序には、「楽翁公伝」を編纂するにいたった由来や松平定信の功績が述べられています。
下記に自序の抜粋を掲載しましたので、ご興味のある方はご覧ください。
なお、国立国会図書館デジタルコレクションでは「楽翁公伝」全文を読むことができます。⇒「楽翁公伝」
《参考「楽翁公伝」自序(冒頭部分と後半部分を抜粋)》
「玆に私の名を以て楽翁公伝を刊行するに当り、聊かその由来を述べて著者としての責任を明かにして置きたい。
私は嚮に旧主徳川慶喜公の伝を編纂刊行したが、それは公の忠誠なる御心事が世に知られて居ない点を明かにして、公から受けた御恩の万分の一をも報じたく、且つ明治維新前後の史実が誤り伝へられて居るものゝ多いのを是正するの一助としようとしたのであるが、この楽翁公伝は、それとは全く異なつた事情の下に編纂したもので、私が深く楽翁公の徳業を欽慕するのと、現今の世態が、頗る公の如き公明忠正なる政治家を必要とする秋であると感じたからである。
(中略)
私は自分の専管する東京市養育院が、公の遺択によつて成つたのを感佩(かんぱい:感謝して忘れないという意味)して、明治四十三年以来、毎年公の忌辰(きしん:祥月命日)たる五月十三日に、養育院に於て記念会を催して、祭典を執行し、且つ学者を聘して講演会を開きなどして来たが、此の如き盛徳ある楽翁公でありながら、未だ詳しい伝記が世に出て居ないので、私は深くこれを遺憾に思ひ、正確なる伝記を編纂したいと考へ、数年前これを公の御子孫である松平子爵に謀(はか)つて承諾を得たので、更に楽翁公の研究者たる三上参次博士に懇談したところ、博士も早くから公を欽慕(きんぼ:敬い慕うこと)し、既に大学卒業の翌年に「楽翁公と徳川時代」なる一書を公けにし、爾来(じらい)更に詳密なる公の伝記を著作せんと欲して、常に資料を蒐集しその稿本をも作製して居られたが、今は臨時帝室編修官長として、専ら明治天皇御紀の撰述に従事しつゝある為め、到底他事を顧みる暇なく、また御紀の撰述終了までは一己(いっこ:自分一人)の著書を公けにすることを好まぬから、従来蒐集(しゅうしゅう)した資料と稿本とを挙げて提供する故、他に適当なる学者を選んで、これが編纂を託せられたいとのことであつたから、協議の上、平泉澄博士にその編纂を委託し、一通り草稿は出来たが、同博士は遽(にわか)に欧洲に留学せられることになつたので、その後、一切を挙げて中村孝也博士に委託した。斯くて中村博士修訂し、更に三上博士校閲し、私も亦反覆熟読して意見を述べ、尚ほ深く公の事蹟を研究して居らるゝ松平子爵家の松平稲吉氏に精読を請ひ、その縝密(しんみつ:慎重であること)周到なる注意を承けて訂正を加へ、こゝに漸(ようや)く本書を完成したのである。かやうに三上博士が資料と第一稿本とを提供して、平泉博士これを編纂し、中村博士の修訂せられたものであるから、孰(いず)れを著者とも定め難く、已むを得ず、私の著作として世に公けにすることにした。しかし私が嚮(さき)に徳川慶喜公伝を著したのとは全く事情を異にして居り、また世には私が如何に楽翁公を私淑(ししゅく)しその事蹟を知つて居るとしても、歴史家でもなく文学者でもない者が果して真に正しい公の伝記の著者たるを得るであらうかと訝(いぶか)る人もあらうと、こゝにその顛末を叙する次第である。而して本書の稿本は私が会長である財団法人楽翁公遺徳顕彰会に譲与し、同会の事業の一つとして出版せしめ、先づ第一にこれを公の霊前に捧げる積りである。私は九十二歳の今日、漸(ようや)く多年の宿望を達したことを特に欣快(きんかい:非常に喜ぶこと)とするのである。
今熟々(つくづく)一般社会の状態を観るに、人心漸く弛廃(しはい:ゆるみすたれること)して浮華(ふか:うわべは華やかで実質の乏しいこと)淫佚(いんいつ:なまけて遊興にふけること)に流れ、且つ政治界といはず経済界といはず、私利を趁(お)うて公利を遺(わす)れる弊が頗(すこぶ)る多く、心ある者をして眉を顰(しか)めしむるもの枚挙に遑(いとま)なきばかりである。この時に当り若し一人にてもこの書を読んで、公が一家の身命を犠牲にして能(よ)く天下の艱難(かんなん)を匡救(きょうきゅう)せられた至忠至誠の大人格に感興する士があるならば、独り私の喜びのみに止まらぬのである。
子爵 渋沢栄一述」
このような栄一の口述による序文の後に、渋沢敬三の付記が追加されています。「楽翁公伝」刊行の経緯が解りますので、あわせて記載しておきます。
「右の序文は、今を距(へだた)ること七年前、昭和六年七・八月の交に、祖父栄一が中村博士から修訂の成るに随って送られる稿本を読みつつ、家人に口授して筆記せしめたものであります。この文中にもある如く、祖父は遠からずこの書を世に公けにすることの出来るのを心から喜んで稿本を反覆熟読し、この点を今少し深く調べたい、こゝをもつと力強く書きたいなどと、種々中村博士に注文し、また或る時は自ら筆を執つて雌黄を加へたりして居りましたが、祖父が楽翁公に傾倒して居りましたことは、全く想像に余りあります程で、この公を後世に伝へるには、その徳に愧(は)ぢぬだけの典雅な文字を以てしなければならぬと常に申して居り、随つて字句の上には、尚ほ一層の推敲を加へたい希望があつたやうでありますが、そのうちに不治の大患に罹つて、未だ脱稿といふまでに至らず、同年十一月十一日遂に不帰の客となりましたのは、如何ばかりか残念であつたであらうと推察せらるゝのであります。それでこの書は実は未定稿でありますけれども、文章の点はともかくも、祖父が公について言はんと欲する所は、もはや十分悉されて居るものと思はれ、また既に松平子爵の序までも乞ひ得てありますのでこのまゝ束閣(そくかく:書物を高い棚に放置すること)するに忍びず、今度三上・平泉・中村三博士とも御相談の上、更に校訂を加へ、祖父の遺志に従つて稿本を楽翁公遺徳顕彰会に贈遺し、こゝに同会に於てこれを刊行せらるゝに至つたのであります。
昭和十二年十一月
子爵 渋沢敬三」