栄一、商法講習所(一橋大学の前身)の運営に関与する(「青天を衝け」こぼれ話2)
松平定信が創設した七分積金を明治になって引き継いだのが東京府の共有金でした。この共有金の資金を活用した代表的な事業は養育院ですが、養育院のほかにも商法講習所や瓦斯(ガス)事業などがあります。それらの事業にも渋沢栄一は関与しています。そこで、これから渋沢栄一が関わった商法講習所やガス事業について書いてみます。
今日はまず商法講習所について書きますが、その、前に、東京都の共有金の原資となった七分積金について簡単に説明しておきます。
七分積金は前回書いたように、寛政の改革を行った老中松平定信が創設したものです。
松平定信は、寛政の改革の一環として、町入用(町の経費)の節約を命じ、その節約分の2分(20%)を町人に戻し、1分(10%)を各町で積み立て、残りの7分(70%)を毎年江戸町会所に積み立てさせ、窮民救済や不時の災害にあてさせました。
この七分積金は幕府が存続している間継続して積み立てられ、明治になってから東京府に引き継がれ、「共有金」と呼ばれました。「共有金」の原資の七分積金は、もともと町人が負担していたものであるため、東京府も勝手に使わず、公益のために使用されていました。
この共有金を管理するため、当時の大蔵大輔井上馨と東京府知事大久保一翁が相談して、明治5年8月に東京営繕会議所を設立しました。この時の共有金の使い道は主に①営繕事業(道路・橋梁等修繕)②窮民救済でした。その後、明治5年10月東京会議所と改称されて、共有金の使い道が①営繕事業(道路・橋梁修繕)、②養育院、③共同墓地、④瓦斯灯とアーク灯、⑤商法講習所となりました。
そして、明治7年11月に、栄一は共有金取締に推され、共有金を管理するようになりました。
共有金の使い道の一つであった商法講習所は、現在の一橋大学の前身となります。商法講習所は、商業学校、高等商業学校、東京高等商業学校、東京商科大学、東京産業大学と度々名前を変えて、戦後の昭和24年から一橋大学となっています。
渋沢栄一は、商法講習所の発足そのものには直接関与していませんが、発足後まもなくからその運営に関わっています。特に東京商科大学への昇格については重要な役割を果たしました。
商法講習所を設立したのは、薩摩藩出身の森有礼です。
森有礼は、慶応元年には薩摩藩から藩命でロンドンに留学したいわゆる薩摩スチューデントの一員です。明治元年に帰国すると、ただちに明治政府に迎えられて徴士外国官権判事となり、ついで議事体裁取調、学校取調兼勤などに任命されたが、廃刀を建議していれられず辞任。その後、政府から明治3年アメリカ在勤を命ぜられて渡米し、明治6年帰国しました。
アメリカで、実業教育が行われていたことを学び、日本でも実業教育を教える機関の設立しようと計画しました。しかし、その資金が不足するため、時の東京府知事大久保一翁と相談し、共有金の資金を支出することになり、明治8年8月商法講習所が創設されました。下写真は、銀座にある「商法講習所跡」の碑です。
しかし、商法講習所が設立されて3ヶ月あまりたった明治8年11月、森有礼は清国公使を命じられたため、商法講習所の経営をすることが不可能となったため、資金援助をしていた東京商法会議所に、その運営が依頼されました。このことにより、渋沢栄一が商法講習所の経営に関与することとなりました。
この間のことを渋沢栄一は商科大学創立五十周年祝典での祝辞で次のように語っています。(デジタル版『渋沢栄一伝記資料』収録の「竜門雑誌 大正14年10月」より)
「当時森有礼氏は米国在勤の領事か何かの職にあつたが、米国での実業教育が旺(さか)んであるのを見て、日本にも是非同様のビジネス・スクールを建て度いとて、東京府知事であった大久保一翁氏に助力を頼んで来た。処が大久保氏は結構なことであるから助けたいとは思うが東京府には資金がない。しかし何とかしたいといろいろ考えた末、その昔白河楽翁公が江戸の人達に節倹を勧めて貯蓄した金が共有金という名称で残っている、それを用いてはどうであろうかと、共有金の取締をしていた私に相談があった。私は予て実業教育の必要を感じていたので、森氏の説に応じた方がよいとして、直ちに関係者の会議を開いて皆に同意させた。その際商業教育に経験あるホイツニーという教師を雇うことにして、学校の費用は一万円位入用であるということであったから共有金の内から八千円ばかり出して助力することにした。そこで森氏は自分からも一万円程出して木挽町に「商法講習所」という小さい学校を建てて一年ばかり経営して居た、ところが森氏が公使として支那へ行くことになったから、学校の世話が出来なくなるので、後を誰がやるかということが問題となり、また私に相談がありついに府のものとして経営することにし、更に共有金の内から資金を支出して維持するように話がまとまった。これは明治8年頃のことである。」
こうして、栄一は商法講習所の経営に参加することになりましたが、明治10年、共有金を管理していた東京会議所が解散したため、商法講習所は東京府が直接管理することとなり、栄一は東京府から委託を受けて商法講習所の経営を行いました。
しかし、東京府が管理するということは、東京府の税金が商法講習所の維持運営に支出されるということですが、明治の前半期には、実業教育の必要性に対する理解がまだまだ低かったため、東京府会から、税金を実業教育に支出することに反対する意見が出されるようになりました。そこで、栄一は、実業界によびかけて寄付を募り商法講習所の維持に努めました。
この時の苦労が「一橋五十年史」に次のように書かれています。(国立国会図書館デジタルコレクション「一橋五十年史」参照)
「此の時東京会議所は既に解散し(10年2月)その結果商法講習所支出予算の議決権も、自(おのずか)ら府会の権内に属しておった。商法講習所の予算総額は7千円でこの金額は東京府の管轄に転じてより府税を以て支給せられ、これが支出は府知事の手に委ねてあったのである。然(しか)るに明治12年11月地方税規則の発布あり、これが励行さるる事となった結果、右予算の支出も府会の決議を経ねばならなくなった。然(しか)るに当時は未だ政治的変革の後を承けて諸般の制度備わらず、加うるに商業の要はまだ世人の痛切に認むるところとはなっておらなかったが故に、府会においては決議に際して商法講習所の費用を半減してしまった。是においてその半額3500円を府税より給与され、他の半額はやむなく醵金(きょきん:お金を出すこと)に求むる事になって、即ち矢野所長は這般(しゃはん:今般という意味)の事情を顧問渋沢栄一等に訴え、その尽力により有志12名の出資を求むる事が出来た。」
このように栄一たちが努力をしているにもかかわらず、ついに明治14年7月には、東京府会が商法講習所への支出を拒み、商法講習所の廃止を議決する事態となりました。
そこで、栄一たちは、河野敏鎌農商務卿へ請願を行ったことにより、明治17年 3月 商法講習所は農商務省の直轄となり、名称も東京商業学校と改称しました。
そして、明治18年に内閣制度が発足し、商法講習所を提案した森有礼が文部大臣となったこともあり、東京商業学校は明治18年 5月 文部省の直轄となりました。
そして、明治18年 9月 東京外国語学校と合併し神田一ツ橋に移りました。
【2022年1月22日修正】
上記の取り消し線の部分に正確でない部分がありましたので、下記のえんじ色の通り修正および補足をします。
一方、文部省は、明治17年3月、東京外国語学校(東京外国語大学の源流)に付属高等商業学校を創設しました。
このため、国立の商業学校が、農商務省と文部省に、それぞれ分かれて二つ存在することになりました。
明治17年5月、駐英公使となっていた森有礼が帰国し、文部省御用掛を命じられました。商法講習所を設立した森有礼にとって、商業学校が二つある異常事態は理解できず、早速、文部卿の大木喬任に二つの学校の合併を提案し、第一段階として明治18年5月農商務省所管の東京商業学校を文部省に移管し、9月に外国語学校と付属高等商業学校と東京商業学校の合併を実現させました。合併後の校名は、東京商業学校として、10月には、一ツ橋通町(現在の一ツ橋2丁目)の旧東京外国語学校の校舎に移転しました。
同年12月22日に内閣制度が発足し、森有礼が初代文部大臣に任命されました。
明治20年 10月、東京商業学校から 高等商業学校と改称しました。
そして、明治35年 4月には東京高等商業学校と改称しました。
これ以降、大正 9年 4月に東京商科大学となりますが、それに至るまでは紆余曲折があったようです。それらについては次回に書きます。