栄一、東京高商の大学への昇格に尽力する(「青天を衝け」こぼれ話3)
渋沢栄一は、商法講習所が、商業学校、高等商業学校、東京高等商業学校と名前を変えても一貫して商業教育の発展に尽くしました。
栄一は、明治17年に農商務省より商議委員を嘱託され、大正9年まで一貫して商議委員として東京高等商業学校(以下、東京高商と略します)に関わっていました。
栄一は、実業家に対しても高度の教育を授ける必要があると考えていたため、東京高商の大学昇格を願っていました。今日は、東京高商の大学昇格に栄一が尽力したことについて書いていきます。
東京高商が大学昇格へ動き出したきっかけは、東京高商の同窓会の男爵叙爵祝賀会だったそうです。栄一は、明治33年、還暦の歳に男爵を授与されました。実業人の社会的地位向上を示す象徴的な出来事であったため、高商同窓会主催の男爵叙爵祝賀会が開かれました。
その席で渋沢は、商業大学の必要性を述べています。これが端緒となり、ヨーロッパ留学中の高商教員らが「商業大学設立ノ必要」を述べたベルリン宣言を発するなど商科大学設立の機運が起こっています。
そして、明治40年には、商科大学設置建議書が衆議院と貴族院を通過しました。しかし、組織形態をめぐって、文部省と東京高商の考えは一致しませんでした。
そうした中、明治41年、文部省は、東京高商の単科大学を認めず、「東京帝国大学法科大学」に経済・商業2科を新設し、「東京高等商業学校専攻部」を廃止して「東京帝国大学法科大学」に事実上吸収する方針を決定しました。つまり、東大に商業学科を新設し、それまで高度な教育を担ってきた東京高商の専攻部が廃止されるということになりました。
帝大法科大学経済科は9月11日より開講しましたが、東京高商側は、当初の東京高商の単科大学昇格をめざし運動をつづけました。
明治42年には、東京高商の学生約1300名の賛同を得た「文相および衆議院・貴族院両院議長宛請願書」の提出を東京高商の松崎蔵之助校長に要請したところ、松崎校長はこれを拒絶し学生代表を罵倒する事件が起きました。これに対して学生側は松崎校長排斥運動を起こしましたが、逆に先頭に立った専攻部の学生が処分されてしまいました。
『一橋五十年史』には次のように書かれています。
「全校千三百余名の賛成をもって文相並に両院議長に対する請願書提出の件を決議し、専攻科一年の有志三名此の決議を携えて校長松崎蔵之助を校長室に訪い、該請願書の進達を請うた。しかるに何思ひけん松崎校長はこの請願書の進達を峻拒したのみならず、学生を大いに罵倒したのである。
暗雲ここに破れて急雨沛然として到った。一橋学生の権威はどこにある。松崎校長排斥の声は校内到る所に勃発して来た。(中略)
かくて、学生大会は数回連続して開かれ、松崎校長の処決を促す事愈々(いよいよ)急となり、ついに先頭に立った専攻部一年の5名は退学処分を受けなお他に一名の無期停学処分を見るに到った。
退学処分を受けた学生は嘗て校長室において松崎校長と直接談判に及ぶうち、憤激のあまり、突然卓上にあった書籍を取って松崎校長の頭部に投げつけた。これが退学の最大原因となったのである。
六名の犠牲は、もえさかる焔(ほのお)に油を注いだようなものであった。その勢はいよいよ猛(たけ)く天をも焼かんづ有様(ありさま)となり、到底停止する所なきに至った。」
こうした学生側の運動だけでなく、関一、佐野善作ら4教授が抗議して辞表提出するなど抗議運動が続きました。
こうした事態を収拾するため渋沢栄一が動き出しています。同じく「一橋五十年史」に次のように書かれています。
「越えて3月1日、我が国の商業教育の発展をもって畢生(ひっせい:一生という意味)の事業とする商議員渋沢栄一来校して、学生一同に対して懇切なる慰撫演説を試みる所があった。猛(たけ)りに猛(たけ)っていた学生もこれによって鎮められ、その結果問題は全く無条件にて、渋沢商議員に一任せられ、学生はなんら積極的行動を取らないという事に決した」
こうして、栄一の努力で、学生側の激高は、とりあえずいくらか収まりました。
しかし、5月6日、文部省は、東京帝国大学法科大学内に経済科新設されたため東京高商の専攻部を廃止するという決定したため、この決定に対して、東京高商の昇格を希望している学生側は態度を硬化させ、5月11日には学生大会を開催し、在校生は総退学(全員が退学すること)でこれに抗議することを決議しました。
そこで、栄一は桂太郎首相に直談判して、学生側の主張を訴えました。その結果、22日の閣議で、専攻部の廃止を以後4年間延期することが決定しました。これを受けて、23日に開かれた学生大会に、栄一は商議員会を代表して、商業会議所代表や父兄保証人会代表とともに出席し、栄一ら三団体代表が、演説を行い復学をすすめました。
栄一たちの勧告により、学生たちは、三団体に一任して無条件に復校就学することを決議し、翌5月24日に1,300名の学生が復学しました。
そして、文部省は、専攻部廃止を6カ年延長することとし、ついに明治45年3月、専攻部廃止令は撤回されました。
この事件は、明治42年の干支をとって「申酉(しんゆう)事件」と呼ばれています。
「辛酉事件」は、東京高商側の勝利となりました。これにより、東京高商の大学昇格の基礎は固まりました。しかし、実際に大学昇格には少し時間を要しました。
そして大学に昇格し「東京商科大学」となったのは大正9年3月31日のことでした。
この大学昇格を祝って、4月24日、如水会により「昇格祝賀会」が開催されました。
その祝賀会の冒頭の幹事の挨拶で栄一は次のように紹介されています。東京高商の発展にいかに栄一が尽力をしたかがよくわかりますので、デジタル版『渋沢栄一伝記資料』から引用させていただきます。赤字部分に注目ください。
「多年の宿望でございました母校の昇格は、議会解散のためにその予算の可決になりませぬだけで、その他は本月一日より名実ともに商科大学となりました。ついいてはこれが祝賀会を開いて昇格について御尽力下された方々に対して謝意を表するの機会を得たいという議が出ました。(中略)まず内輪即ち同窓会・如水会の会員だけで祝賀の宴を張ろうではないか、これに母校創立者中で最も有力者、始終変らぬ保護者、最も功労ある渋沢男爵閣下、この方はごく俗に申すとはなはだ恐れ多うございますが、吾々の御父さんといたしておる、これは極く尊敬して守本尊の如く考えますところのこの御父さんは、この内輪の会にもぜひとも欠くべからざる方であるから、どうぞ同男爵閣下の御賁臨を願おうじゃないかということで、御賁臨を請いましたところが、(中略)ここは先約であるというのでそれを他に委ねてここにおいで下さいました。この御親切御好意によって男爵閣下とともに御同様ここに祝宴を開くことを得ましたのは、実に喜ばしいことでございます。(後略)」
これに対して栄一は次のように祝辞で語っています。
「(前略)商業学校の昇格については明治25・6年頃からその希望を起して30年頃も種々(しゅじゅ)尽力しました、それからはどうしたらば宿望が達するのであろう、いかなる場合にその機会が得らるるであろうということは、爾来(じらい)年一年と期待しておりましたが、その間学校内にも色々波瀾曲折がありました、例えば校長転任につき学生間に不折合を生じたとか、又は専攻部廃止のために学生が不平を起して大騒動となったとかであります。それは42年の事でございまして、私は実に苦心をして調停しました。成瀬君の御述べの如く常に近い親類として御相談に与(あずか)りましたのも一再にして止まらぬのでありました、その度毎に吾々の目的の達するのはいつのことであるかと思いまして待遠(まちどお)く感じたのであります。先年私は教育調査会の委員として屡々(しばしば)「この問題を論じて見ましたが、力足らずして貫徹しなかったその後私は老躯(ろうく)の故をもって調査会は辞しましたが、従来同志者多数の苦心が終(つい)に巌をも通すの譬(たとえ)の如く、今日御同様その初志を遂げたということは、私は老後においてこれほど喜ばしいことはないのでありまして、実に三十余年来の宿志がここに貫徹したというてよろしいと思うのであります。
今夕はアメリカよりの来賓ヴアンダーリツプ氏の一行が着京しましたので、同氏の一家族を私の三田の別邸に止宿せしむるといふので其手配もあり、其他の来賓の宿割り等で頗る雑沓して居りましたが、如何に必要なる賓客で殊に私が此来賓に対しては主人の位地でありながらも、当席の約束を背(そむ)いては相済ぬ、否(いな)衷心(ちゅうしん)御断(おことわり)ができぬので、来賓の世話方をば他の人に委托してこの御席に参上して、諸君に喜びを述べるとともに自らも喜悦するを楽(たのしみ)として出席しましたが、ただいま成瀬君から長い沿革を御述べになり、また堀君から鄭重なる御挨拶で、私の今夕の出席はむしろ内部の人として臨場を請うたので、賓客(ひんきゃく)とはせぬと言われたのは何んとなく私には自己の成功を誇り得るように感ずるのであります。」
栄一が、東京高商の大学昇格をいかに喜んでいたかわかる内容だと思います。