如水会館と商法講習所跡(渋沢栄一ゆかりの地29)
2回にわたり一橋大学の前身である商法講習所と東京高商の発展に尽力した渋沢栄一について書きましたが、今日は、商法講習所と東京高商ゆかりの地についてご案内します。
商法講習所から発展した東京商業学校が東京外国語学校と合併し一ツ橋に移転してきたことは既に書きました。
前回書いたように東京高商は大正9年に東京商科大学となりましたが、東京商科大学となった後の大正12年 9月1日の関東大震災のため一ツ橋の建物の大半を焼失しました。
震災翌年の大正13年4月、本科は神田仮校舎において授業を開始し、予科は石神井の仮校舎に移転して授業を開始しました。そして、昭和 2年 4月になって一ツ橋にあった商学専門部は国立に移転しました。これが現在の一橋大学国立キャンパスです。
このように、東京高商および東京商科大学は、明治18年(1885)から昭和2年(1927)までの42年間、一ツ橋にありました。
一橋大学の現在の主要なキャンパスは国立と小平となっていますが、一ツ橋にも学術総合センターや如水会館があります。
【如水会と如水会館】
高等商業学校の同窓会が、最初に設立されたのは、明治22年でした。そして、前回書いた申酉(しんゆう)事件後の大正3年、同窓会の有志によって、東京高商の大学昇格を支援するための新しい組織が創設されました。これが如水会です。
如水会という名前は、渋沢栄一が礼記にある「君子交淡如水(君子の交わりは淡きこと水の若し)」より命名したものです。大正9年には既存の同窓会を吸収して事業を一元化し、東京高商・東京商科大学時代から一橋大学時代にわたり、様々な支援を行ってきています。
現在の如水会館(正式な建物名は如水会ビルディングというようです)は、昭和57年に建設されたものです。(下写真はビル全景、南東方向の「一ツ橋河岸」交差点から撮影したもの)

それ以前には、大正8年に建設された如水会館がありました。その旧如水会館の玄関アーチが如水会館の玄関を入った正面に保存されています。(下写真)

玄関アーチの右手に渋沢栄一の銅像があります。
大正6年、栄一の喜寿を記念し渋沢栄一寿像が制作され、10月27日、講堂で記念式典が行われ、栄一が謝辞を述べています。しかし、この銅像は大正12年9月1日の関東大震火災で如水会館が類焼したため失われてしまいました。
そこで、もう一度製作することとなって、大正15年11月14日、如水会館復興建築竣工開館式の後、栄一の寿像除幕式が行われ、渋沢栄一が出席し謝辞を述べました。この像は掘進二が制作したものです。
しかし、この銅像は、昭和19年に金属類供出により失われてしまい、その後、渋沢栄一寿像の再建され、昭和39年、除幕式が行われています。

如水会館の3階に「橋畔亭」という日本料理のお店があります。そのお座敷に渋沢栄一の揮毫した掛け軸がかけられています。
「功名多向窮中立 禍患常従巧処生」と書かれていて、「功名は多く窮中に向ひて立ち 禍患(かかん)は常に巧処(こうしょ)より生ず」と読み下します。出典は、南宋の詩人陸游の「読史」だそうです。

【東京外国語学校発祥の地】
如水会館の北側には、「東京外国語学校発祥の地」の碑が設置されています。(下写真)
碑文には次のように書かれています。
「東京外国語大学の起源は 安政1(1857)年に創設された蕃書調所まで遡るが, 直接の前身である東京外国語学校が開設されたのは, 明治6(1873)年11月1日, この地(当時の 東京府神田区一ツ橋通町一番地)においてであった。
東京外国語大学は この日を建学記念日として, ここに碑を建立する。
平成14(2002)年3月27日 東京外国語大学」

前回、書いたように、東京高商がこの地に移転してきたのは、合併先であった東京外国語学校の校舎が、もともと一ツ橋にあったためです。
東京外国語学校は、明治19年に廃止されてしまいました。そのため、外国語学校の人たちは「庇(ひさし)を貸して母屋(おもや)をとられた」と嘆いたそうです。
【一ツ橋と一橋徳川家】
一ツ橋という地名は、外堀に架けられていた「一ツ橋」という橋の名前にちなむものです。下写真は現在の「一ツ橋」

「一ツ橋」という橋の名前は、徳川家が江戸城に入った頃には、大きな丸木が一本架けられただけの橋であったことから、この名がつけられたと言われています。江戸時代初期の三代将軍家光の頃には、付近に松平伊豆守信綱の屋敷があったので、伊豆殿橋と呼ばれたこともありました。
現在の橋は、大正14年に架けられた関東大震災の復興橋梁の一つです。
一ツ橋が架けられた外堀の内側には、三十六見附の一つに数えられる「一橋門」がありました。その門の石垣の一部が現在も残されています。この門の石垣は、寛永6年(1629年)に築造され、明治6年(1873)に撤去されましたが、その一部分が川岸にわずかに残っています。

一橋門の内側には、「青天を衝け」にも登場した一橋慶喜が当主であった一橋家の屋敷がありました。
その屋敷の一部は、現在、丸紅の本社となっていますが、その本社脇に「一橋徳川家屋敷」の標柱と説明板が建っています。
一橋徳川家の屋敷は、元文5年(1740)から、当地にありました。

【商法講習所跡】
さて、最後に「商法講習所」が最初に設置された場所の案内をします。
商法講習所が最初に設立された場所は尾張町でした。当時は、鯛味噌屋があり、その二階だったそうです。そして、まもなく木挽町に移転しています。
尾張町は、現在は、銀座六丁目と町名が変わりました。現在は「GINZASIX(ギンザシックス)」(昔は、「銀座松坂屋」でした)の目の前の歩道の際に設置されています。(下写真)

歩道側からは「商法講習所」と刻まれていて、碑文は次のようになっています。
「明治8年(1875年)この地に商法講習所を開設す これ現在の一橋大学の発端なり 昭和50年9月24日
百年記念に当り一橋大学之を建つ」
その裏側つまり車道側には「一橋大学発祥の地」と刻まれています。(下写真)


