栄一、ガス事業の発展に尽くし、東京瓦斯を創立する(「青天を衝け」こぼれ話4)
松平定信が創設した七分積金を原資とする東京府の共有金は、これまで話した通り、商法講習所のための資金として利用されましたが、その他に、ガス事業にも利用されていました。渋沢栄一は、明治7年11月に東京会議所の共有金取締に推薦され、翌年8年12月27日には会頭となりました。こうしたことから、渋沢栄一は、ガス事業にも関与し東京瓦斯会社(現在の東京ガス)の創立にも関わりました。そこで、今日は、栄一とガス事業の関わりについて書いていきます。
日本で最初にガス灯が灯ったのは横浜です。横浜の高島嘉右衛門らによって明治5年9月29日、横浜でガス燈が初めて点火されました。
東京では、明治4年に東京府知事由利公正が東京市内にガス燈建設を計画し、7月にガス製造器械英国より東京に到着しました。この事業が東京会議所に引き継がれました。由利公正は吉原に建設する計画でしたが、東京会議所は、府下各所にガス灯の建設するように計画を変更しました。
こうした時期、渋沢栄一は、明治7年11月に東京会議所の共有金取締に推薦され、翌年8年12月27日には会頭となりました。そこで、栄一は、ガス事業にも関わるようになりました。
このガス事業に関わった経緯を栄一は、デジタル版『渋沢栄一伝記資料』収録の「竜門雑誌 第297号〔大正2年2月25日〕」の「本邦瓦斯事業の今昔」の中で次のように語っています。
「(前略)そもそも帝国の瓦斯事業は明治維新とほとんどその時を等(ひとし)うし、年を閲(けみ)すること未(いま)だ四十年を出でず。今その起源に遡(さかのぼ)りてこれを見るに、維新の初め子爵由利公正氏が東京府の知事たるの際、フランスに漫遊し、たまたま瓦斯機械を見て、その灯火の美麗にしてかつ便利なるのみならず、これを本邦従来の油火に比較するときははるかに安全なるに心を動かし、ついに一小機械を購入して帰朝せり。当時吉原においてはしばしば火災を発して、市民安からざりしをもって、子爵はまずこれを吉原に試み、もって火災の憂(うれい)なからしめんと企てたりき。しかるに機械の到着後直に工場を設立するに至らず、そのままこれを深川仙台屋敷へ放置せり。明治五年頃に至り、外国人との交渉成立し仏人ペレゲレン氏を聘(へい)して技師となし、始めて横浜居留地に瓦斯の点火をなさむとするに際し、東京においても前に購求せし機械をもって瓦斯の点火を開始するに至れり。この際由利子爵既に職を去り大久保一翁氏代って東京府知事たり、当初機械を購入せし金額の出所を尋ぬるに、寛政の昔白河楽翁公が切に市の経費を節約して得たる市の共有金より支出し、その経営費もまたこれによりしをもって、瓦斯事業は全然之を東京府の管理に帰する能わず、市民より総代を選出しこれが管理上の諮問に応ずることとしたり。これ即ち営繕会議所なるものにして、後改めて東京会議所と称し、議員の数20名ないし30名を有したり、故に東京における瓦斯事業は東京府の公営にあららずして一種の組織を採りたるものというべし。
回顧すれば余の東京の瓦斯事業に関係を有するに至りしは、明治7年大久保知事の嘱託を受け、共有金の監督を司(つかさど)りしにその端を開けり。即ち瓦斯事業は前述の如く共有金をもって経営せしを以て、共有金の監督を司るにおいて自ら瓦斯事業に関係せざるを得ざりしなり。」
栄一自身が語っているように、栄一とガス事業との関りも、東京会議所による共有金取締に任じられたことから始まったのでした。(上記赤字部分)
明治7年12月、芝区芝浜崎町三番地(現:東京ガス本社所在地)に瓦斯製造場が建設され、12月8日には京橋以南金杉橋間までの間にガス灯85基が点火されました。(下写真は、首都高の下の旧京橋の南側に京橋の親柱の隣に復元されている明治時代のガス燈です。)
共有金を取り扱っていた東京会議所は、その共有金が減額してきたことから、東京会議所が解散することになり、明治9年5月25日、ガス事業も東京府に移管されました。
これ以降は、ガス事業は東京府の事業として行われることとなり、事業主体は東京府瓦斯局となり、栄一は、最初は瓦斯局事務長でしたが、明治12年8月8日の職制制定により局長となりました。
ガス事業は、まだ産声をあげたばかりでしたので、東京府として採算は合いませんでした。そのため、ガス事業を民間に払い下げようという動きがおこり、明治14年7月27日には、東京府会が、瓦斯局の払下げを決議しました。しかし、この払い下げについて、栄一は断固として反対し、払い下げを中止させました。これは、浅野総一郎がガス局を廉価で払い下げてもらおうと動いていたようです。
この事情について、デジタル版『渋沢栄一伝記資料』収録の「瓦斯界 第一巻・第三号〔明治四四年八月二三日〕」で栄一は次のように語っています。
「浅野氏の払下げ運動 電灯の為に大パニツクを蒙(こうむ)り、瓦斯灯は明日が日にも廃滅の運命に瀕したかのように思われた時に、突如として瓦斯局払下運動をしたのは浅野総一郎氏である。浅野氏は瓦斯局に石炭を納めていたので、瓦斯についても相当な知識を持っていたが、ひとり瓦斯事業の有望なる事を信じ、機敏にも府知事・府会を説破しておおよそ払下の相談を取まとめ、そうして私のところへ相談に来たのである。その言によると瓦斯局払下の代金15万円、内5万円を即金で納め、残り10万円は一年1万円づつ即ちむこう十ケ年賦で納めるというのである。これに付け加えて今この機会に瓦斯局を払下げて置けば、将来必らず大なる利益がある。その利益は貴君と等分にするから、是非承諾してくれとの事であった。私は直にこれを拒絶した、今まで多年の辛苦を積み、費した金も殆んど25.6万円に及んでいる。この間には色々の故障困難もあったが、とにかく今日まで堪忍んで来、今二三年もすれば漸(ようよ)う物になろうという処を、ただの5万円即納で売払うとは、あまり市民に不親切である。なるほど浅野氏と相談して今これを払下げて置けば利益もあらう。割もよかろうがそれでは筋が違う。東京市に対して済まぬ、いやしくも瓦斯局長たる自分が私利を図って市民に損失を蒙(こうむ)らしてはすまぬ、もし電灯の風説に脅かされて瓦斯局を売る位ならむしろこの此事業を廃した方がよい。たかが5万円位の金が市民に何の役に立つか、十年賦の1万円などは、頭から当にならぬ、そんな事断して不承知である。誰が何といっても不承知であると断然拒絶し、府会にも府知事にも大にこれを論(さと)したので払下けはついに沙汰止みとなった。」
栄一が反対したのは、苦労してようやく黒字化になろうとしている時期に安い値段で売ってしまうことの悔しさとともに、赤字のままのガス事業を安い価格で払い下げるより、収益を黒字化して、高い価格で売却したほうが、府民のためであるという考えだったようです。
浅野総一郎と組んで安価でガス事業を払い下げてもらい、その後の事業革新で利益拡大を図るという方法もあったとは思いますが、栄一がそうした方策を採らなかったところにも、社会公益を重視する栄一らしさがあると感じます。
また、栄一は、明治17年の浅野総一郎の官営深川セメント製造所の払い下げに絶大な協力をして、それ以降、浅野総一郎の事業をバックアップしていますが、この頃は、まだ、そうした関係にまで発展していなかったことも一要因かもしれません。
一旦払い下げが中止となった後、栄一を局長とする東京府瓦斯局は、明治16年に設備投資により販売量増加をめざすとともに上海瓦斯会社に日本人技術者を研修に派遣するなどの経営努力を続けました。その結果、まもなく瓦斯局の採算が好転したことから、栄一は、明治18年3月瓦斯局の払い下げを東京府に建議します。それを受けて東京府は瓦斯局の払い下げの公告を明治18年7月1日に出しました。
そこで、栄一は、瓦斯局払い下げの受け皿として、明治18年10月1日、東京瓦斯会社を創立しました。栄一は、創立委員長として準備にあたり、浅野総一郎・大倉喜八郎らが協力しています。
そして、払い下げ額は、24万円となりました。明治14年の払い下げ額が15万円でしたので、東京府は、当初より非常に高い価格で払い下げることができたことになります。
栄一自身は、「瓦斯界 〔明治44年8月23日〕」で次のように語っています。
「瓦斯局払下げに反対した私は一時随分非難されたかも知れぬが次(つい)で来りし事実は私の勝利であった。すなわち瓦斯局員一同の精励によって明治16年から始めて利益を見る事になった。瓦斯事業の基礎は固まったのだ。電灯の恐慌ったのである。元来府という者は一種の公共事業で小さい国であるといっても差支ない。その公共国たる府が余り営利的に走っては面白くないのみならず、もはや払下るにしても従来の投資額に利子位は加えて収むることができるから、むしろ会社に移すがよかろうというので、いよいよ明治18年に27万3千円で会社に譲ったのである。数年前に危ふく5万円で投出さるべきものがただ忍耐一つでこの価を生んだのである。」※栄一のいう27万3千円は、払い下げ価格24万円に加えて利子や瓦斯局内の土地代などを含んだ価格。
栄一の面目躍如といったところでしょう。
栄一は、東京瓦斯会社創立の時から取締役会長となり、明治42年に古希にあわせて実業界から引退する際に辞任するまで、会長の任にあたりました。
このように見てくると東京瓦斯株式会社は、栄一が深く関わった企業の一つに挙げてよいと思います。
前述の通り、首都高の下の旧京橋の南側には、南側に京橋の親柱があり、その隣に「煉瓦銀座の碑」があり、その後ろにガス燈が復元されています。(下写真)
「煉瓦銀座の碑」の足元に説明板が設置されていて、それには次のように書かれています。(下写真)
「煉瓦とガス燈(1987年記) 明治初期我が国文明開化のシンボルとして、銀座には煉瓦建築がなされ、街路照明は、ガス燈が用いられた。床の煉瓦は、最近発掘されたものを、当時のまま「フランス積み」で再現。ガス燈の燈柱は、明治7年の実物を仕様、燈具は忠実に復元。」