栄一、東京電灯(東京電力の前身)の役員となる(「青天を衝け」こぼれ話5)
渋沢栄一は、ガス事業として東京ガスの創立に大いに関与していますが、ガス会社と並んで重要な公益事業である電力事業でも東京電力(※1)の前身である東京電燈の創立にも関わっています。そこで、今日は、栄一と東京電灯との関りについて書いていきます。※1:東京電力株式会社は、持株会社体制に移行して、現在の正式名称は「東京電力ホールディングス株式会社」となっています。
デジタル版『渋沢栄一伝記資料』を見てみると、渋沢栄一自身は、東京電灯について特に語っていないようです。
しかし、栄一の秘書であった白石喜太郎は「渋沢栄一 92年の生涯 夏の巻」の中で、次のように書いています。
「子爵の関係したパブリツク・ユーチリチーとしては、瓦斯事業の外電灯事業があり電話の事業がある。電灯についてはかねて西欧に遊びし際、パリ市役所その他有名なホテル等の前に、電灯のかがやいているのを見て、驚異の目を見張った経験がある。当時パリでも電灯は新たな試みで、フランス人にも珍らしかったのである。爾来(じらい)、次第に普及し、東洋にも行われ、上海などでは用いらるる様になったので、常に尖端を行く子爵はこれを我が国にも採り入れんとした。かくて明治18年の頃、大倉喜八郎と謀り、銀座の大倉組の前へ電灯一基を点じ、始めて之を東京市民に紹介した。これを見んため、群集が毎夜殺到したことを『六十年史』に記してある。やや誇張して聞えるかも知れないが、事実である。当時紙幣寮吏員であつた矢島作郎は、藤岡市助と謀り電灯会社を設立せんとしたが、有力者の援助を受けなければ、到底目的を達し得ざるをさとり、子爵及び大倉喜八郎等に援助を懇請したので、子爵はその請を容れ、大倉等と共に明治19年7月創立委員となって東京電灯会社を起し、成立の後は委員として経営の任に就いたが、幾(いくばく)もなくこれを辞した。(後略)」
また、「東京電灯株式会社開業五十年史」の中では、次のように書かれています。
「この当時表面に現はれてはいないが、大倉喜八郎氏と共に渋沢栄一氏(青淵)が、当社の成立に対して大いに斡旋の労を取られた模様である。」
「東京電灯株式会社開業五十年史」によれば、工部大学校教授であった藤岡市助が、電灯会社の設立を提唱しました。これに対して賛同する人が少なかったなかで、東京電灯初代社長となる矢嶋作郎は電灯事業の有望なることを見越して、大倉喜八郎・原六郎・三野村利助・柏村信・蜂須賀茂韶と相談し、明治15年3月18日東京府庁を通じ時の内務卿山田顕義に対し東京電灯会社の設立を出願しました。
そして、明治15年7月、創立仮事務所を京橋区銀座二丁目の大倉組内に設置し、11月1日大倉組内の仮事務所前に二千燭光の弧光灯(アーク灯)を点火し電灯の宣伝を行いました。
「東京電灯株式会社開業五十年史」には「瓦斯(ガス)灯はおろか石油ランプすら全国に行きわたらない頃のことだから、東京市民は『文明の光』と謂(い)われる電灯の光芒(こうぼう)に、全く肝を潰し、見物人が毎晩蝟集(いしゅう)する有様であった。僅か一基の電灯が時人(じじん:その時の人)の人気を完全に攫(さら)って行ったこととて、電気万能時代とも言うべき今日から考えると全く隔世の感が深い。」と書かれています。
東京電灯会社は、明治16年2月16日に許可され、明治19年7月5日に無事開業しました。この時、栄一は、東京電灯会社の委員(重役)となっています。
前述の通り、「東京電灯株式会社開業五十年史」に、銀座2丁目の大倉組の前に宣伝用にアーク灯を設置したと書いてありますが、このアーク灯が現在復元されています。
銀座2丁目の交差点の北東角に「Cartier(カルティエ)」のサインが目立つ「カルティエ銀座本店」があります。(下写真)
この「カルティエ銀座本店」が入居するビルが中央建物株式会社が所有する大倉本館です。中央建物株式会社は、明治6年に大倉喜八郎が創業した大倉組商会の流れを汲む会社で、大倉組から鉱業部門が分離され、後に持ち株会社である大倉組を合併したことにより大倉財閥の中核会社とされた大倉鉱業が戦後の財閥解体により中央建物株式会社となりました。現社長大倉喜彦氏は大倉喜八郎の曽孫だそうです。(下写真が大倉本館の正面玄関です)
大倉本館の中央通り角の壁面にプレート「東京銀座通電気灯建設之図」が埋め込まれています。下写真の左下がプレートで、右が中央通りです。そして、自転車の女性の先にある電柱が復元されたアーク灯です。
下写真がプレート「東京銀座通電気灯建設之図」の拡大写真です。プレート下部には「明治15年11月、ここに始めてアーク灯をつけ不夜城を現出した 当時の錦絵を彫刻してその記念とする 昭和31年10月1日 銀座通連合会 照明学会 関東電気協会 東京電力株式会社」と刻まれています。
下写真が上記プレートの元となった「東京銀座通電気燈建設之図」(「国文学研究資料館所蔵」)です。
下写真は復元されたアーク灯拡大写真です。中央通り脇の歩道に建てられています。
復元されたアーク灯の下部には「明治十五年十一月一日(一八八二年)日本最初の電気街灯建設の地」「「明治15年11月、ここに始めてアーク灯をつけ不夜城を現出した 建設当時の電灯のデザインを忠実に復刻し製作された記念灯です。 平成28年9月28日復元」と書かれています。
東京電灯は、明治19年の末に、東京市内五か所に火力発電所を建設することに決定し、第一電灯局は麹町、第二電灯局が南茅場町に建設されることになりました。当時は、発電所でなく電灯局と言っていて、発電所という名称を使用したのは、明治25年1月以後でした。
南茅場町の第二電灯局は明治20年11月21日に落成しました。これが日本初の火力発電所です。なお、第一電灯局が落成したのは明治21年6月28日でした。
第二電灯局で発電された電気は近隣の東京郵便局(現在の日本橋郵便局)や日本郵船会社に送電されました。それを記念して、茅場町の相鉄フレッサインの前に「電燈供給発祥の地」碑があります。(下写真)
その碑文には次のように書かれています。
明治20年(西暦1887年)11月21日東京電燈会社がこの地にわが国初の発電所を建設し,同月29日から 付近の日本郵船会社、今村銀行,東京郵便局などのお客様に電燈の供給を開始いたしました。
これが,わが国における配電線による最初の電燈供給でありまして,その発電設備は直立汽缶と,30馬力の横置汽機を据付け,20キロワットエジソン式直流発電機1台を運転したもので,配電方式は電圧210ボルト直流三線式でありました。」