井上馨、銀座煉瓦街を計画する(「青天を衝け」こぼれ話6)
明治時代の銀座といえば、多くの人が煉瓦街というイメージを持っていると思います。この銀座煉瓦街計画を立案したのは由利公正だという説がある一方、銀座煉瓦街を計画したのは井上馨であるという説もかなり有力です。そこで、今日は、井上馨が銀座煉瓦街を計画したという話について書いてみます。
以前も紹介しましたが、首都高速下の旧京橋に「煉瓦銀座之碑」(下写真)が設置されています。
その碑文には
銀座は全焼し延焼築地方面に及び焼失戸數四千戸と称せらる
東京府知事由利公正は罹災せる銀座全地域の不燃性建築を企画建策し政府は国費を以て煉瓦造二階建アーケード式洋風建築完成す
煉瓦通りと通称せられ銀座通り商店街形成の濫觴となりたり
昭和三十一年四月二日」と書かれています。(下写真)
なお、碑文の上部の書は「経綸」と書かれていて、由利公正の揮毫です。
この碑文に書かれているように銀座煉瓦街を企画したのは由利公正であるという説があります。
由利公正は福井藩士で、藩主松平慶永のもとで、窮迫していた藩財政の再建に優れた手腕を発揮しました。また、「五箇条の御誓文」の草稿を作成したことでも有名です。明治政府では、当初、越前藩での藩財政再建の力量をかわれ、新政府発足時の財政担当をゆだねられました。しかし、由利公正の政策に対する批判が高くなり、明治2年に辞職しました。その後、明治4年から東京府知事に就任しました。
由利公正が東京府知事であった明治5年2月26日午後5時頃、和田倉門内旧会津藩邸にあった兵部省の屋敷から火事が起こり、折からの強風に煽られ、八代洲河岸にあった大蔵省紙幣寮へ飛火し、司法省や高知藩主であった山内家の屋敷など丸の内の旧大名屋敷を焼失させ、さらに火事は、現在の銀座、築地一帯を焼失させました。
この火災をきっかけに、政府は銀座を耐火構造の西洋風の煉瓦街に改造することを計画しました。これにより、銀座に煉瓦街が計画が動き出します。
この計画の当事者の一人である東京府知事は、当時、由利公正でした。そこで、銀座煉瓦街計画を立案したのは由利公正だという説があります。その一方で、銀座煉瓦街を計画したのは井上馨であるという説もかなり有力です。
この銀座煉瓦街の建設について、井上馨の伝記「世外井上公伝」に次のように書かかれています。ちなみに「世外井上公伝」の著者は渋沢栄一です。
「この火災前から大隈は築地の本願寺附近なる旧旗本戸川安宅の邸(政府より下賜)に住建し、公及び伊藤もその附近に寓していたので數多の人物がここに集合するところから、世人は之を築地の梁山泊と称した。公の懐旧談に、『ちょうどその頃に築地に大隈が居り伊藤が居り私が居って、築地の梁山泊という事をよく言われ居った。それからあの銀座の焼けた時分に、三人言い合うて、これはどうも東京の銀座通りなどは、将来大変な繁昌をする所だから、この際に銀座の街を広げようじゃぁないかという論を相談して、それはよかろう。それで政府に百万円という者を元金にして立てて、 そうしてこれを端から建てて、また東京全体の市区改正とは言わぬけれども・・・改正をしていかにゃぁいかぬという。それから同意になってそれを提出した所が、とうとう太政官の方でも認可した。そうすると東京府知事が、あんな馬鹿な広い街を造ってどうするつもりかと言って、大変反對を受けた事がある。」(世外公維新財政事談歴)と述べている。この三人の会合で案を立て、燒跡の処分を協議したのてあるが、正院の示達に依り、2月30日に大蔵省から東京府へ、「府下家屋建築の儀は、火災を免れるため、追々一般錬火石(煉瓦のこと)等を以て取建るよういたすべし御評決にあいなりそうろう條、その方法見込相立て、大蔵省と打合わすべし事。」と通逹した。」
このように、築地の梁山泊で、井上馨、大隈重信、伊藤博文の相談に煉瓦街を造ろうということになり、正院の指示により大蔵省から、「東京府下の住宅は徐々に煉瓦造りにする」ようにと東京府に方針が伝えられました。
しかし、「東京府の管掌で銀座街の建築を創剏(そうそう:始めること)したのであるが、種々の点に不便があったので、7月4日に公は正院の決裁を以て、工事一切を大藏省直営に移した。その発令は9日で、17日に臨時建築局を(大蔵)省中に設置し、公がその総裁となった。」(「世外井上公伝」より)
「世外井上公伝」によれば、東京府で推進するにはいろいろな不都合があったため、大蔵省が直接管理して、煉瓦街の建設計画を遂行することになり、井上馨が責任者になったとしています。
また、東京府知事であった由利公正は、岩倉遣外使節団の一員として渡航することになり、明治5年7月15日に東京府知事に免官となっています。
これらのことを考えると、銀座煉瓦街を推進したのは井上馨だったという説が有力説だと言われるものもっともなような気が私はします。
さて、銀座大火が起きた明治5年には、井上馨は大蔵大丞で、渋沢栄一は大蔵少輔で、とともに大蔵省に勤めていました。そのため、栄一も銀座煉瓦街計画には栄一も関わっていたようです。
デジタル版『渋沢栄一伝記資料』収録の「青淵先生伝初稿 第7章」には次のように書かれています。
「明治五年二月二十六日、和田倉門内兵部省の添屋敷旧会津藩邸火を失す、折からの烈風に煽られて、火はたちまち東南にひろがり、丸の内の官衙(かんが)・邸宅を焼き払い、堀を越えて京橋以南の諸町を、築地まで灰燼に帰せしめたり。先生いえらく、家屋建築の制粗悪なる上に、防火の設備もまた疎なり、ことに火災保険の制度なきが故に、災民の苦痛は莫大なるべしとて、井上と共に、家屋の改良、保険制度の採用等に付き討議せり。先生は嘗て欧州に遊び、堅牢なる洋式家屋に眠食(みんしょく:起居することの意味)し、また徳川昭武の賃借せる家屋に火災保険を附したることあれば、痛切にその必要を感じたるものなるべし。正院にてもこれに鑑み、災地に煉瓦家屋を建築して火災を防ぎ、かねて都府の美観を添えんとし、築造を東京府に、経費の支出を大蔵省に命じたり。
(中略)その築造は初め東京府の手にて経営せられしが、明治5年7月大蔵省の取扱となり、建築局を設けて専当せしめ、9月之を土木寮に移管す。かくて銀座の一部始めて落成して東京府に交付し、これを各居住者に引渡したるは先生等辞職の前数日なりき。京橋新橋間全部の完成を告げたるは明治10年5月にして、起工よりは数カ年を費したれども、創始経営は実に先生の大蔵省時代に成れるものなり。」
これによると、渋沢栄一も銀座煉瓦街建設に関わっていたようです。