松平定信が創設した七分積金(「青天を衝け」こぼれ話8)
渋沢栄一が養育院の運営に関与したり、東京ガスの創設に関わるようになったのは、既にこのブログに書いたように松平定信が創設した七分積金を原資とする東京会議所の共有金の管理をゆだねられたことによるものです。その共有金の源となった七分積金とはどういうものであったかについて興味を持ちました。しかし、七分積金について詳細に説明したものがありませんでしたが、都史紀要「七分積金」という本を見つけました。それには七分積金について詳しく書いてありました。そこで今日は、都史紀要「七分積金」に基づき「七分積金」について書いてみます。
⑴七分積金とは
松平定信は、寛政3年、江戸の地主階級が負担する町費すなわち町入用を節減するため、天明5年より寛政元年まで五ケ年平均の町入用を算出させ、その額より出来る限り節約した町入用節減高を書出させて、節減を実行させ、その節減額の十分の七を積み立てることとしました。これが七分積金と呼ばれるもので、七分積金とは、町入用節減額の十分の七の積金と言う意味です。
⑵七分積金の企画者は、平岡円四郎の父
松平定信が、七分積金を創設したのは、備荒貯蓄のためでしたが、これを献策したのは岡本政苗・正成父子だと都史紀要「七分積金」には次のように書かれています。「松平定信が江戸の備荒貯蓄の対策として、市民の町入用を節約させ、この節約額の十分の七を積み立てさせるに至ったのは、岡本正苗父子の献策によると言われている」(都史紀要「七分積金」p19より)
岡本政苗は、勘定奉行所の役人で「勘定」のポストにありました。その子正成は、「敏腕で学識があり、正苗が町会所の内実に規画するは正成の発意に出たもので。それを父正苗をして上言させたものといわれている。」(都史紀要「七分積金」p19より)そうです。
この岡本父子ですが、「青天を衝け」の登場人物と不思議な縁があることがわかりました。岡本正成は「青天を衝け」に登場した平岡円四郎の父だと思われます。平岡円四郎は、岡本正成(号は花亭)の四男として生まれ平岡文次郎の養子となりました。ですから、岡本正苗は平岡円四郎の祖父ということになります。なお、岡本正成は、天保13年(1842)5月、勘定奉行となっています。父の正苗より出世したことになります。
もし、平岡円四郎が明治まで生きていたと仮定して、渋沢栄一が共有金の取締となったと平岡円四郎に報告したら、円四郎は、「共有金の元となった七分積金は俺の親父が考えたものだ。それはおかしれぃ!」と言って喜んでくれたかもしれないと想像するとおもしろくなります。
⑶町入用とは
町入用とは何かですが、都史紀要「七分積金」によれば、「町にあって地借店借以上の生活をしているものを一口に公式上町人と呼んでいたが、この町人が自己の住んでいる町の一員として、町を主体とする種種の入費を負担するのを町入用と言った。」のです。
ここで、注意を要するのが町人の定義です。町人と言った場合、落語に登場する「八っつあん、熊さん」に代表される店子(たなこ)も町人と思いがちですが、店子は土地屋敷を所有していませんので、公式には町人ではありません。ですから、「八っつあん、熊さん」に代表される店子は町入用を負担しませんでした。
町入用には①定式町入用と②臨時町入用とがあります。都史紀要「七分積金」から引用しておきます。
「⑴定式町入用は、公役銀の外に御年頭銀、町年寄晦日銭、名主役料、水銀(飲用料)、上水方普請割方(水道の樋や桝を普請修繕する費用)、鐘役、大纒当番、鳶人足捨銭、同木綿法被半天股引、町内書役、櫓番、木戸番、自身番入用、芥取捨銭である。これを各町聞小間高に割って、各自の負担を定め、六月、十二月の二回にわたって半額づつ納入する規定になっていた。尤も各人よりの徴収は、多くは毎月集金の組合のようなものが作られていた。 ②臨時町入用とは、纒修理、竜吐水(ポンプ)、祭礼入用、番屋修復及煢替、道造り入費、諸勧化等」です。
⑷町入用の節減
松平定信は、天明5年より寛政元年まで五ケ年平均の町入用を算出させました。それとは別にどれだけ町入用が節約できるか書き上げさせました。
そして、その節減額の十分の七(七分)を積み立て、十分の二(二分)は町人のものとし、十分の一(一分)はいざという時のため町に積み立てさせようとしました。
出来る限り節減して書き出された額は3万7千両余りとなったため、その七分にあたる2万2千両余りが毎年積み立てられることとなりました。
⑸町会所
積み立て額を管理するとともに非常用または貧困者救済のための米穀買い入れを行う役所と米蔵が、浅草向柳原に設置されました。これが町会所です。町会所があったのは、古地図によれば、現在の秋葉原駅東口と浅草橋駅西口の間、現在の浅草橋四丁目にあったようです。
ところで、町会所という名称は、籾蔵会所、町会所、柳原会所、社倉会所の四案の中から松平定信が「町会所」という名称を選びました。
七分積金は町人たちの積金であったため、町会所の運営は、町人自身たちの運営に任され、三谷平九郎をはじめとする勘定所御用達十人に委託されました。勘定奉行所や町奉行所の役人は事務に立ち会うだけでした。
⑹七分積金の使い道
町人から集められた七分積金は、主に囲い籾の買い入れ、貧困者の救済、町人に対する貸付事業に使われました。
囲い籾は入札により買い入れし、「囲い穀は、籾と玄米半数位ずつで行い、少しでも腐敗の兆あるものは随時詰め替えを行い、必ず保存の久しきに耐えるものを選んで囲い穀をすることとなっていた。それ故、維新の初めまで、寛政4年町会所創立のときに貯蔵した籾がなお数石保存されていたといわれている」(都史紀要「七分積金」p57より)
町人に対する貸付は、寛政4年に下賜された1万両と寛政11年にも下賜された1万両、合計2万両と積金の一部を利用して、家屋敷や土地を担保として貸付ました。
(8)積金額と貯穀高
積金は、寛政4年から、毎年、だいたい2万両の積み立てが行われました。だいたいというのは、例えば、火事に被災した町は積金を免除される等の処置があったため、年により積金額が変動したからです。
こうして積み立てられた七分積金は、安政2年には、現金20万3千両、貸付金17万6600余り、籾46万7178石余りとなり、これが町会所での貯えた籾と金銭の最多だったそうです。
籾が46万石超も蓄えられていて、現金が20万両もあるというのは、大名を上回る財産規模です。すごい財力だと感心させられます。
これだけの籾を収容するには、町会所敷地内にある籾蔵だけでは不足するため、深川橋富町籾蔵、筋違橋内籾蔵が増設され、さらに小菅籾蔵も増設されました。
(9)こうして蓄えられた籾・金銭は、平時には困窮者の救済に活用されたほか、火事、水害、震災、病役などの非常時の救済に活用されました。
①火災の場合には、救い小屋を建てて一人一日白米三合の割合で握り飯か粥が支給されました。その後、定例支給として類焼した貧民に独身は白米升銭2百文が支給され、家族持ちは、人数に応じて増加されました。
文化3年の大火の際には、七分積金から小判に換算して3717両余りが支給され、救済した延べ人員5万3千人余りとなりました。
安政5年のコレラが流行した際には、おおよそ6万両余りが支給され、救済された人員は52万人を超えるといいます。
このように、七分積金は、非常時の江戸市民の救済に大きな力を発揮しました。
(10)最後に
驚くべきことに「幕府当局者が幕末維新の変転きわまりない時代にあって、幕府の財政は窮乏の極に達し、正にその大樹倒れんとする際にも、この莫大な積金米穀に一指も触れることなく、積金米穀はあくまで市民のもので救恤のための費財として保存され、維新政府に引継がれた」(東京都公文書館「都史紀要『七分積金』より」そうです。
町人の積み立てた資産に手を付けまいとする幕府の矜持を感じさせるエピソードだと思います。
こうして、明治維新を迎えても、多額の金額が積み立てられていました。それを東京府が活用することとなります。それについては機会をみて、改めて書こうと思います。