第一国立銀行跡《銀行発祥の地》(渋沢栄一ゆかりの地30)
渋沢栄一が創立した第一国立銀行は、明治6年6月11日に海運橋兜町に創設されました。第一国立銀行は、「株式会社第一銀行」となり、更に第一勧業銀行を経て、現在はみずほ銀行となっています。
みずほ銀行兜町支店の南東の外壁に「銀行発祥の地」と刻まれたレリーフが埋め込まれています。(下写真)

そのレリーフには、次のように書かれています。(下写真)
銀行発祥の地
この地は明治6年6月11日(1879年)
わが国最初の銀行である第一国立銀行が
創立されたところであります
昭和38年6月

この日本最初の銀行である第一国立銀行の本店は、当時の東京の名所であり、多くの錦絵などに描かれています。下絵は、小林清親の「清親画帳」の中の「海運橋(第一銀行雪)」です。(国立国会図書館蔵)

第一国立銀行は、木骨石造の五階建ての和洋折衷の建物で、清水組(現清水建設)二代清水喜助が設計施工しました。
明治4年8月に着工し、翌年6月に竣工しました。この建物は、外国人技師の指導によらず、設計施工が日本人だけの手によって初めてなされた西洋風建築物です。

この建物は、もともと三井組が清水喜助に建築を依頼したものでした。総工費4万7千両だったそうです。
三井組は、三井組ハウスとなづけ、「為替座」の本店として利用する予定でした。しかし、大蔵省時代の井上馨と渋沢栄一によって強く譲渡を迫られ、第一国立銀行に譲渡したものでした。
「世外公維新財政談」の中で、渋沢栄一は「(第一国立銀行の)場所はちょうど海運橋畔にあった家の所に造る。その家屋代償は12万8千円だと思う。その所はもと三井で銀行にしようと思っていたのを新会社で買うというわけであった。」と語っています。
第一国立銀行が創設された場所は、栄一が語っているように俗に海運橋と呼ばれました。それほど海運橋という名前が有名でした。
この海運橋は、現在は埋めたられてしまった楓川(かえでがわ)という川が日本橋川と合流する地点近くにかかる日本橋方面と茅場町方面をつなぐ橋でした。現在は、首都高速の脇に海運橋の親柱が建っています。(下写真)

海運橋は、江戸時代には海賊橋と呼ばれていました。海賊橋という名前は、橋の東側に、江戸時代初めに、幕府水軍(当時海賊衆とも言われた)を率いた船手頭向井将監の屋敷があったことによります。
明治維新以降に海運橋と呼ばれるようになりました。
この海運橋が架かっていた楓(かえで)川は、徳川家康が江戸に入府した時に行った江戸湾の埋め立ての際に、水運用に海を埋め残したものだと言われています。その楓川は、戦後、埋め立てられ、その上を高速道路が建設されてしまいました。下写真は海運橋が架かっていた場所の現在の姿です。ここに川が流れていたことは多くの人が知らないだろうと思います。下写真の左下に海運橋の親柱が設置されています。

第一国立銀行が建てられて兜町周辺は、幕末には田辺藩牧野家の上屋敷となり、さらに三河西尾藩松平家の上屋敷となりました。その後、明治になってから、産物会所や通商司の役所となっていました。
この土地が三井家に下賜され、三井組がこの土地を利用していました。
一時、ここに井上馨が住んでいたことが、渋沢栄一の「「雨夜譚」の「退官の内意を井上馨大蔵大輔に漏らす」の中に書かれています。渋沢栄一が、大久保利通と意見が合わないため退官しようと決めて、井上馨の邸宅に相談に行った際の話として、その邸宅について、「そこで、海運橋なる井上の邸宅を訪うて面会を請うた(井上はこの時海運橋の三井家所有の邸宅に住居しておられた)」と書かれています。
なお、明治4年に三井組ハウスの建築が始まる際には井上馨は浜町に転居したと「第一国立銀行史」に書かれています。

