第一銀行本店二代目建物(渋沢栄一ゆかりの地31)
前回、ご案内した通り、第一国立銀行跡には、現在はみずほ銀行兜町支店があります。その建物の西側外壁に、第一国立銀行からみずほ銀行兜町支店までの建物の歴史がわかる掲示がされていて、初代・二代・三代の建物が紹介されています。(下写真)
それによると現在のみずほ銀行兜町支店の建物(下写真)は四代目です。
初代は、先日も紹介した第一国立銀行として清水喜助が設計施工した建物です。しかし、この建物は、明治30年代になると、あちこちに修理が必要になりました。そこで、新しい建物を建てることになりました。そうして、明治35年に竣工したのが二代目建物(下写真)です。
二代目建物は、明治31年9月に着工し約3年半の工事期間をかけて、35年3月31日に落成しました。ちなみに、銀行としては4月7日から営業しました。
二代目建物の設計は、日本銀行や東京駅の設計で有名な辰野金吾が担当しました。辰野金吾は、日本銀行本店をはじめ多くの銀行建築の設計を行っています。第一銀行関係でも、本店のほか、大阪支店、京都支店、神戸支店の設計を行っています。
二代目建物は、土地約873坪、建物は3階建で建坪約472坪、耐火防火設備を備えた建物でした。外壁は花崗岩を鉄棒で補強していました。床は鉄骨耐火構造で、屋根は防火対策を講じた屋根で屋上に避雷針が立ててありました。
明治35年4月3日には、本店新築披露が行われ、三井高棟(たかみね)男爵、大倉喜八郎、浅野総一郎、原六郎、馬越恭平、田口卯吉など一千名の人々が訪れています。
本店の営業室の背後には中庭が設けられて、そこに栄一の銅像が設置されました。この銅像は、栄一の還暦を記念して行員一同から贈られたものでした。本店新築披露が行われた明治35年4月3日は、栄一銅像の除幕式も同時に行われています。
この銅像は、現在は、北区渋沢史料館にある晩香蘆(ばんこうろ)の南側に設置されています。(下写真)
当初第一銀行本店の中庭に設置された銅像は、昭和5年に三代目建物が新築された際に、第一銀行の厚生施設である清和園に移転され、さらに昭和46年に渋沢史料館に移されました。
二代目建物は、大正12年に起きた関東大震災で、建物自体は耐震・耐火性の高く堅牢であったため倒壊しませんでした。
渋沢栄一は、関東大震災が起きた際には、兜町の事務所にいましたが、堅牢な第一銀行本店に避難し、そこで昼食をとり、その後、飛鳥山邸に帰宅しています。
しかし、その後兜町一帯も焼いた火事により、金庫に所蔵していたもの以外のすべての書類が焼失するなど大きな被害を受けました。
「第一銀行史」を読むと、関東大震災が起きた晩に宿直をした行員の記録が載っています。それによると、地震の揺れは激しかったものの本店の建物は倒壊しなかったため、第一銀行の営業は地震後も続けられていました。しかし、客が来ないため3時ごろには多くの行員は退行したようです。
夕方になると兜町周辺も火災となり、午後6時ごろには第一銀行本店に火事が近づいてきました。宿直となった二人は、それでも本店の巡視を続けていたところ、火事が本店を覆い、逃げ遅れた宿直の一人は窓から川に飛び込んで難を逃れました。しかし、火傷をしたため、翌日、救援に来た行員によって信濃町の慶応病院にまで運ばれています。
この記録を読むと、第一銀行は、地震発生直後は、大きな被害はなかったものの、その日の夕方から夜にかけて襲った火事により大きな被害を受けた様子がよくわかります。
第一銀行本店は、このように大被害を受けため、一時、仮営業所に移転しました。そして、翌年13年4月に元の本店に戻り、それ以降も本店として使用されました。
第一銀行は、昭和5(1930)年に本店を兜町から丸の内に移転することとなりました。しかし、その後も二代目建物は第一銀行兜町支店として使われました。
三代目建物は、昭和11年に建てられました。三代目建物は、鉄骨鉄筋コンクリート造りで、設計は西村好時が担当しました。(下写真)