渋沢栄一の兜町邸②(渋沢栄一ゆかりの地33)
今日は、渋沢栄一の兜町邸について書いて行きます。
渋沢栄一は、第一国立銀行の総監役に就任した翌月の明治6年7月に前回紹介した裏神保町の屋敷から兜町に転居しています。
栄一が兜町に転居した理由は、第一国立銀行との間に次のような契約があって、第一国立銀行の近くに住んでいることが求められたためのようです。
「第九条 渋沢氏ハ右職務勤仕中、銀行最寄ニ来住シ、銀行ヲ以テ我居宅ト心得銀行事務取扱時限外ノ事マテモ、其取締向万端ノ事ニ配意スヘシ。」
先日、日証館(日本橋兜町1-10)が渋沢栄一の兜町邸の跡とされていると書きましたが、兜町で最初に住んだ場所は、現在の日証館がある場所ではありませんでした。

渋沢栄一が兜町で最初に住んだ家は三井組所有していた借家でした。
デジタル版『渋沢栄一伝記資料』には、三井組と結んだ賃貸借契約書が収録されています。それによれば、兜町二番地にある三井組所有していた土地295坪余り、建坪85坪の二階建ての借家でした。その住宅に明治6年7月8日に転居しました。
栄一の長女穂積歌子が書いた「ははその落葉」には次のように書かれています。
「その後、大人(栄一のこと)には、第一国立銀行の長となり給いしかば、近きわたりならでは便あしき事多ければとて、7月ばかり海運橋のほとりに移らせ給いけり。」
それでは、三井組から借りていた家がどのあたりにあったかについて、デジタル版『渋沢栄一伝記資料』収録「佐々木勇之助氏ヲ囲ム座談会」の中で、昭和11年7月2日におこなわれた座談会で、第一銀行元頭取で栄一のそば近くで仕えた佐々木勇之助は次のように語っています。
「佐々木氏 (中略)ちょうど度兜町の株式取引所の今の仮普請の先の所辺りですよ。二階建の家がありました。何でもその家に暫く御住いになって……
石井氏 川縁ですか。
佐々木氏 いや川縁じゃありませぬ。あれは何でも三井でもって拵(こしら)えた二階家でしてね、そうしてちょっとした、可なりの何でして、お子さん方が、今の篤二さんとかそれから阪谷の奥さんなどはそこから出て来て銀行の脇の横町を通っていらっしゃった。阪谷の奥さんなどは踊りの稽古にいらっしゃるのに通られる。篤二さんなどは乳母が附いて通ったりなんかされたということはあるのですけれども、(中略)
渋沢子(渋沢敬三のこと) 深川の家の出来る前ですか。
石井氏 そうです。」
同じことが「第一銀行史」にも書かれています。
佐々木勇之介の説明では具体的にどこかということを正確に特定できるだけの材料はありませんが、日証館は日本橋川に面していますので、栄一が兜町で最初に住んだ住居は現在の日証館がある場所ではなさそうです。
そして、栄一は、深川の福住町に新しく家を購入し、明治9年8月26日にそこ転居しています。
深川福住町で12年住んだあと、明治21年12月6日に兜町に新築した西洋建築の家に転居しました。これが兜町邸です。
兜町邸は、辰野金吾が設計したもので、イタリアのベニスの家屋と取り入れたものと言われていて、明治19年12月から施工していたものです。ちなみこの建物も清水組が施工しています。下写真が兜町邸です。

そして、栄一は、明治11年に、飛鳥山に土地を購入して、別荘を設けていました。そこでは、主にお客様の接待用として利用していました。しかし、明治31年4月から家屋を改築を始め。33年12月に完成しました。そこで翌年34年5月10日に兜町邸から転居しました。そして兜町邸は渋沢事務所として使用することになりました。そのため、栄一は、飛鳥山邸で生活し、事業や社会公益事業についての事務を旧兜町邸で執ることになりました。
渋沢事務所として使用されていた旧兜町邸は、大正12年9月1日の関東大震災により発生した火事が、1日午後6.7時頃、対岸の小舟町と隣町の坂本町から延焼してきた火事により兜町一体は火に覆われ、渋沢事務所も火災に包まれて収蔵していた書類などとともに全焼してしまいました。

