兜神社と鎧橋(渋沢栄一ゆかりの地35)
日証館の西側、高速道路との間に、兜神社があります。今日は、この兜神社についてご案内します。(下写真)

兜神社の地は、後で書くように平安時代の歴史的な言い伝えのある地ですが、兜神社自体は、明治になって創建された神社です。
兜神社の境内にある「兜神社の由来」(下写真)には

「明治11年ここ兜町に東京株式取引所(東京証券取引所の前身)が設けられるに当たり、同年5月取引所関係者一同の信仰の象徴および鎮守として兜神社を造営した。御社殿に奉安してある「倉稲魂命」の御神号は時の太政大臣三條実美公の揮毫になるものである。」と書かれています。
これによれば、東京株式取引所が設立された時に創建されたようです。
兜神社の境内に「兜岩」と呼ばれる岩があります。(下写真)
この岩は古い謂れのある岩です。

江戸時代の江戸の名所ガイドとも言うべき「江戸名所図会」の兜塚(江戸時代には兜岩は兜塚と呼ばれていたようです)の項目に次のように書かれています。
「兜塚 海賊橋の東詰、牧野家の庭中にあり。源義家朝臣、奥州征伐凱陣のとき、先の報賽のため、かつは東夷鎮護のためとして、日本武尊(やまとたけるのみこと)の古き例(ためし)に準(なら)ひ、みづからの兜を一堆(いったい)の塚に築(つ)き籠(こ)めたまひしとなり。いまその傍(かたわ)らに、義家朝臣の霊を鎮(まつ)る小祠(こみや)あり(『紫の一本(ひともと)』〔戸田茂睡〕といへる双紙に、「甲山(かぶとやま)とありて、藤原秀郷、平将門を討ち、その首を冑(かぶと)とともに持ち添へきたりしが、冑をばこの地に埋めたる」とあり)」
「江戸名所図会」によると、源義家が奥州征伐から凱旋した時、自分の兜を埋めた塚を造ったものだと書いてあります。また、別の説では、藤原秀郷が平将門を討ち、将門の首と兜を持ち帰ったが、そのうちの兜を埋めたものだと言うとも書いてあります。
さらに、兜塚にかたわらに義家の霊を鎮める小さな祠があったと書いてあります。
日本取引所グループのホームページを見ると、「江戸時代後期には、鎧の渡付近に平将門を祭ったと言われる鎧稲荷や源義家所縁の兜塚があり、明治4年、三井物産(株)の前身にあたる会社のひとつである東京商社の移転に伴い、鎧稲荷と兜塚は、鎧の渡と兜橋の間に遷された時に、兜塚をベースに源義家を御神霊として兜神社が創建され、鎧稲荷と合併して、兜町の鎮守としての兜神社となった。」と書かれています。
こちらによれば、兜神社の創建は明治4年ということになりそうです。
兜神社は、その後、昭和2年6月に現在地に遷座を行ない、鉄筋コンクリート造りの社殿を造営しましたが、昭和44年5月高速道路の建設に伴い御影石造りの鳥居を残して旧社殿を解体し、同46年3月現在の鉄筋コンクリートの社殿を造営されました。下写真は現在の社殿です。

ちなみに、兜町という名前は、兜岩に由来する名前で、日本証券取引所グループのホームページによると「明治4年、三井組の三井八郎右衛門が『兜町』の名を東京府(当時)に願い出て許された」ものだそうです。
下写真は、兜神社前から、高速道路下の道路を写したものです。

ここに楓川が埋め立てられて高速道路ができるまで、兜橋がありました。兜橋は。デジタル版『渋沢栄一伝記資料』収録の「時事新報 〔大正15年10月6日〕 ビジネスセンター(2)兜町盛衰記(二)」によると、三井により、明治初年に架橋されたものだそうです。
この兜橋の西詰で、明治25年12月17日に栄一は暴漢に襲われましたが、幸いのことに危害を逃れることができました。それについては、以前のブログに書いています。
東京証券取引所前を通る平成通りが日本橋川を渡るところに架けられている橋が鎧橋です。
江戸時代は、ここは「鎧の渡し」と呼ばれていましたが、明治5年に橋が架けられ「鎧橋」となづけられました。下写真

「鎧の渡し」も「江戸名所図会」に書かれていて、「江戸名所図会」には、下記のように書かれています。また、江戸時代の地図「江戸切絵図」にも「鎧の渡し」が書かれています。(下写真) 牧野河内守と書かれている地区が兜町です。右下に「鎧ノ渡シ」と書かれています。(切絵図は国立国会図書館蔵)

「鎧の渡し 茅場町牧野家の後ろをいふ。このところより小網町への舟渡をしか唱へたり。往古は大江なりしとなり。里諺にいふ、永承年間、源義家朝臣、奥州征伐のとき、このところより下総国に渡らんとす。ときに暴風吹き発り、逆浪天を浸し、すでにその船覆らんとき、義家朝臣、鎧一領をとって海中に投じ、竜神に手向けて、風波の難なかちらしめんことを祈請す。つひに、つつがなく下総国に着岸ありしより、このところを鎧が淵と呼べりとなりと (元禄開板の『江戸鹿子』〔藤田理兵衛〕に、「平将門このところに兜・鎧を置く。兜は塚に築きて、牧野侯の庭中にあり」と記せり)。
鎧橋の西詰めに設置されている中央区教育委員会の説明板(下写真)にも同じことが次のように書かれています。

「伝説によると、かってこの付近には大河があり、平安時代の永承年間(1046~53)に源義家が奥州平定の途中、ここで暴風・逆浪にあい、その船が沈まんとしたため、鎧一領を海中に投じて龍神に祈りを奉げたところ、無事に渡ることができたため、以来ここを「鎧が淵」と呼んだと言われています。また、平将門が兜と鎧を納めたところとも伝えられています。」「鎧の渡し」については「江戸名所図会」のほか、歌川広重の「名所江戸百景」にも描かれていますので、紹介しておきます。まず、「江戸名所図会」に描かれている「鎧の渡し」です。現在の兜町側から対岸の小網町に向かう渡し舟が描かれています。(画像は国立国会図書館蔵)



