東京株式取引所〈東京証券取引所の前身〉(渋沢栄一ゆかりの地36)
渋沢栄一が第一国立銀行を創立した兜町ですが、現在では、兜町といえば、「証券の町」と呼ばれています。その中核となるのが、東京証券取引所(下写真)です。東京証券取引所の前身は、明治11年に開業した東京株式取引所です。この東京株式取引所の創立について、渋沢栄一が大いに関係しています。そこで、今日は、東京株式取引所について書いていきます。

東京株式取引所は、明治11年5月に設立が許可され、6月1日に営業を開始しました。この東京株式取引所の設立の中心的な役割を果たしたのが渋沢栄一です。
デジタル版『渋沢栄一伝記資料』収録の「雨夜譚会談話筆記 下 第23回雨夜譚会」の中で次のように語っています。
「経済上金融を完全にしようというには証券類の取引が出来ねばならぬ、金と物との直接交換を一層進めるためにも、有価証券の取引のさかんになる必要がある、殊に合本法の事業としてはその証券の売買の多いことが事業の発展を促すことになると考えたので、外国にあるストツク・エキスチエンジの如きものを明治5・6年の頃、既に私は銀行者になって居りましたので、我が国にも設置した方がよいとして、許可させるように主張した。
しかるに当時の世論とはいえないであろうが、多くの人々は『限月の先商いは現に大阪の商社で旧幕時代からの米売買をやっておるが、それは全然投機否(いな)賭博で、天気のよしあし、雨風の模様で空相場をなすものゆえ、かかるものと同様の取引をなすことは純然たる賭博であるから許可すべきでない』と証券の取引所の組立に対しては政治上同意しなかった。のみならずむしろ悪(にく)み見るほどであった。銀行の起ったのは明治6年であるが、当時大隈侯が大蔵省へは入っており、私は懇意であったから、この事情を申出でたけれども、なかなか反対の議論が強く、今少しく詮議しなければならぬとて、おいそれと許可されなかった。」
栄一は、有価証券の取引を行えるようにすることが重要だと考えていましたが、賭博と同じだと考える人が多くて、なかなか許可されなかったと書いています。
反対の中心人物であったのが、「青天を衝け」にも登場した玉乃世履(たまのせいり)です。この玉乃世履とのやりとりについても次のように語っています。
「なかんずく玉乃世履という人が洋学ではなく漢学の方であったが法律に詳しく筆もたち議論も立つ人で、反対論者として取引所の博打説を主張して少しも譲らなかった。私は玉乃とは大蔵省に奉職していた当時から、懇意であって、彼が故郷の岩国で蚕を飼養せしめたいというのでその練習の世話をしたりしたこともあり、至極(しごく)心安くしていたので、この問題については常に是非の議論を闘わし、玉乃が『お前は博打を奨励するのか』といえば『いや君は産業の進展を阻(さまた)げる』と言い、彼は法律上から、私は経済上から各々自分の信ずる点を主張したものである。したがって、それが主でもなかったろうが、大蔵省が米国の株式取引所の有様などを取調べ、合本法が行われる以上株式の売買も必要であることが判ったけれども、反対論が強いので私等の言うことは聞かれなかったのである。私が小川町から兜町へ転居したのは明治6年であったから、その年かその翌年かであったと思うが、突然玉乃が兜町へ訪ねて来て『今日は正直な話が、お前に平身低頭して悪かったとお詫(わび)すると同時に未来のことも相談したいと思って来た』と言うので『どうしたのか』と聞くと『私交上のことではなく公のことだ』とて『株式取引所での延売買は博打であるとて貴公と議論していたが、この間教えられて自分の誤っていたことを覚(さと)った。(中略)それについては渋沢にまずお詫びせねばならぬと考えて来たのだ』と申します。私は『それは御奇特(ごきとく)なことで、それでは実際は行われるやうにしなければならぬ』とここに両者の意見も一致し、株式取引所が起し得られるようになって、明治11年に成立したのが東京株式取引所であります。」
こうして、明治10年12月26日、創立願書を大蔵卿であった大隈重信あてに提出し、同月28日に許可されました。しかし、定款など詳細をさらに詰める必要があったことから、即座に開業することはできませんでした。
そして、明治11年5月4日新たな株式取引所条例が発布された後、5月10日、新たに創立願いを提出し、5月22日設立が許可されました。
栄一は、株式取引所創立願人総代となって、創立願いを提出しています。
しかし、東京株式取引所の当初の役員は、定款により、頭取、副頭取、肝煎などが定められていて、小室信夫・福地源一郎・渋沢喜作・小松彰・小林猶右衛門の5名が肝煎に選ばれ、互選の結果、肝煎中より小松彰が頭取に推挙されていて、栄一の名前が役員のなかにありません。
これについては栄一なりの考えがあったようです。
デジタル版『渋沢栄一伝記資料』収録の「雨夜譚会談話筆記 下 第23回雨夜譚会」の中で次のように語っています。
「私も博打でないと主張したものの、実際の有様はどうしても投機になるので、第一銀行の経営者たる私がその尻押をして投機的な株式取引をさかんならしめると、銀行としては面白くないので、あえて近よらぬがよかろうとて、その方針で進んだ。(中略)とにかくとして株式取引所の設立には色々心配したが、出来上ってからは、第一銀行の経営者であるところから、経営その他の関係の地位には一切立たなかった。」
こうした理由から栄一は表だった役員などにはなっていませんが、東京株式取引所の資本金15万円(一株金百円で株数千五百株)のうち150株1万五千円出資していて、出資額2番目の大株主となっています。
こうして、明治11年6月1日に東京株式取引所が開業しましたが、デジタル版『渋沢栄一伝記資料』収録の「東京日日新聞 明治11年6月1日〕」を見ると、開場式には伊藤博文内務卿・大隈重信大蔵卿を始め陸奥宗光・前島密なども列席しています。
東京株式取引所が最初に開業したのは兜町6番地にあった島田組の建物でした。現在の東京証券取引所は日本橋兜町2-1にあります。明治時代の兜町6番地が現在の日本橋兜町6番地であるとすれば、東京株式取引所は、現在の東京証券取引所の西側の道路を挟んだ西側の建物(兜町第6平和ビル)の場所に開業したのだろうと思います。
下写真は、明治33年12月出版の「日本之名勝」に載っている「東京株式取引所」です。(国立国会図書館蔵)

こうして開業した東京株式取引所ですが、開業当初の明治11年6月から12月7ケ月間の公債売買高は2656万円で、株式売買高253株だけで、取引されたものの大部分は公債で、株式売買はあまり多くありませんでした。それもそのはずです。インターネットで見られる「我が国の株式会社誕生と上場の道のり〜上場会社ゼロで開業した東京株式取引所〜」によれば、開業当初の上場銘柄はゼロで、明治11年末までに上場された株式銘柄は、東京株式取引所、東京蠣殻町米商会所、東京兜町米商会所、第一国立銀行の四銘柄だけだったそうです。

