日本橋郵便局《郵便発祥の地》 (渋沢栄一ゆかりの地37)
兜神社から歩いて2分の江戸橋の南詰に日本橋郵便局があります。
この日本橋郵便局がある場所に、近代的郵便制度が発足した明治4年に駅逓司と東京郵便役所が置かれました。そのため、日本橋郵便局の江戸橋側の正面入り口に「郵便発祥の地」の銘鈑があります。(下写真)
銘鈑には、「ここは、明治4年3月1日(1871年4月20日)わが国に新式郵便制度が発足したとき駅逓司と東京の郵便役所が置かれたところです。」と書かれています。(下写真)
日本の近代郵便制度は、前島密の建議により、明治4年3月1日(1871年4月20日)に発足しました。そのため、前島密は、「日本の近代郵便の父」と呼ばれています。日本橋郵便局の通用口脇には、前島密の銅像が設置されています。(下写真)前島密の胸像は昭和12年に制作されたものです。銅像の作者は会田富康となっています。なお、「郵政博物館 研究紀要 第12号」の「流転の前島密像―現存する立像と胸像について―」によれば、銘板に、「郵便創始90周年記念で建之し、1962(昭 和37)年 4 月20日 日本橋会・前島会・日本橋郵便局協力会により設置。銅像は昭和12年 3月会田富康により補綴改鋳」とあるそうです。
明治4年3月1日の近代郵便制度が発足した際に江戸橋南詰に新設された「駅逓司」と郵便を取扱う「東京郵便役所」が置かれた場所は、江戸時代は、江戸幕府の「肴役所(さかなやくしょ)」でした。そして、使用された建物も「肴役所」の建物でした。
国立国会図書館所蔵の「東京案内 上」の中の「東京郵便局」には、 本材木町一丁目江戸橋南詰に在り、元四日市町に属し、旧幕府の頃、肴納屋(さかななや)ありたる地にして、里俗あるいは活鯛屋敷(いけたいやしき)と呼び、海鮮の供進を司(つかさど)れり。明治4年3月東京四日市郵便役所を置きたるを本局の濫觴とし、既にして駅逓寮の設置の共に、同役所内に移り、10年1月寮を改めて局とし、19年3月東京逓信管理局、22年7月東京電信局となり、26年東京通信監理局となり、36年12月今名に改む」と書いてあります。
日本橋郵便局の昭和通り沿いのショーウィンドウに、「日本橋郵便局の歴史」として、歴代の建物の写真が掲示されています。初代の建物は下写真です。
江戸城で使用する鮮魚を取り扱う役所は「肴役所」と呼ばれました。江戸城で使用される魚類の中で特に需要が多かったのが鯛です。「肴役所」では、その需要にこたえるため、大きな生簀(いけす)を設けて公儀御用の高級魚を生かしておきました。そのため「肴役所(さかなやくしよ)」は「活鯛屋敷(いきだいやしき)」と俗称されました。この「活鯛屋敷(いきだいやしき)」が駅逓寮と東京郵便役所の建物として利用されました。
江戸時代の切絵図にも「活鯛屋シキ」と書いてあります。(下写真)
「肴役所」を利用した初代の建物は、前島密の執務室が押し入れの中に造られるほど狭いものでした。そこで、明治7年4月30日に、西洋建築風の建物が新築されました。この建物は、時計塔がついていて、東京の名所となり、明治の錦絵にも描かれています。その2代目建物が下写真です。