前島密、現在の上越市に生れる(前島密の生涯①)
郵便制度の確立に大きな功績を残し「日本近代郵便の父」と呼ばれる前島密は、その生涯についてはそれなり知られていますが、詳しい経歴はあまり知られていないように思います。そこで、前島密の生涯について調べて書いてみようと思い立ちました。
前島密についての評伝はいくつかありますが、前島密自身が自叙伝を書いていますので、その自叙伝が収録されている「前島密 前島密自叙伝」(下写真)を参考に書いていきます。
前島密は、天保6年(1835)1月7日に、越後国頸城(くびき)郡下池部村(現在の新潟県上越市大字下池部)の豪農上野助右衛門の次男として生まれ、上野房五郎と名づけられました。母は高田藩士伊藤源之丞の妹貞子といいました。前島密が生まれた下池辺村は、川浦代官所が治める天領でしたので、母は他領の豪農に嫁入りしたことになります。
ちなみに前島密は、上野房五郎→巻退蔵→前島来輔→前島密と名前を変えていて、前島密という名前は明治以降使用した名前です。しかし、ここでは、最も知られた前島密という名前で説明していきます。
前島密の生誕地には、現在、前島密記念館が建っています。(下写真-郵政博物館からの転載です)
父助右衛門は前島密が生まれた年の8月11日に病没しました。
転封10年(1839)4歳のとき母は房五郎を連れて実家のある高田城下に転居し、裁縫などの仕事により生計をたてながら、錦絵や往来物により前島密を教育しました。
天保13年(1842)7歳の春に、糸魚川藩松平家の藩医の叔父相沢文仲に養われることとなり、母とともに、糸魚川に移住しました。
弘化2年(1845)10歳の冬、高田藩の儒学者倉石典太が私塾を開いていることを聞き、入塾するために、はじめて母から離れひとり高田の伯父伊藤源之丞の家を訪ねました。しかし、伯父によろこばれず、下池部村にある生家(上野家)に住むこととして、そこから7km離れた高田の倉石典太の文武済美堂(ぶんぶせいみどう)まで通い勉強しました。倉石典太は、江戸で安積艮斎(あさかごんさい)に学び、帰郷して高田藩に仕え、侍講や藩校修道館の督学でもありました。
高田で学んで2年が過ぎ12歳となった前島密は、江戸に出て最新の医学を学ぼうと決意し、母に相談しました。母は、江戸遊学に賛成し、力強く激励してくれました。こうして、前島密は江戸に旅立ちました。
前島密は、自叙伝の中、特に幼い頃の話を語る際に、いろいろな母の教えがあったことを書いています。それを読むと、前島密の幼い頃、大きな影響を与えたのが母貞子だと思います。そこで、自叙伝の中で語っていることを列記してみます。
⑴前島密は、糸魚川で相沢文仲によって養育されていましたが、その頃、俳句の会があり、幼いながら作った「夕鴉(がらす)しょんぼりとまる冬木立」という句が人々にほめられ、賞品をもらったことがありました。家に帰り、母に告げたところ、母は色をなして次のよう言って諭しました。「世には幼弱にして文を解し、書を能くし、人の賞詞を受くる者あり。然れども成長の後は多く凡庸の人となりて、嗤(わらい)を招くもの多し、汝が今日の事、これに類似せずや。甚だ恐る、汝がこれに自負の心を生じ、他日を誤るあらんことをと。」
つまり、「幼いころ人にほめられても大きくなってからは只の人となってあざけり笑われる人が多い。自分の才能におぼれて大成しなかった人が多い。今日のことで自負心が生まれ将来道を誤るのではないか」と戒められました。前島密は、これを一生の訓戒にしたと自叙伝の中で書いています。
⑵また、高田の倉石典太の塾に入塾したいと母に話した際には、母は「汝不幸生後八ケ月にして父を亡(うしな)ひ、独り母の手に依(より)て乏しき養育を受け、茲(ここ)に初めて就学の道に上らんとす、真に喜ぶべし。請ふ克(よ)く健康に、克く勉励に、師教を奉じて男子たれ。誓って父無き者との嗤(わらい)を取るなかれ」つまり、「おまえは、幼い時に父が亡くなって、母に養育されたが、ようやく自身で学問を学ぶようになった。健康に留意し勉学に励み絶対に父親がいない者だと嗤わることのないようにしてほしい」と涙ながらに諭しました。
⑶さらに、江戸に遊学する際には、母は「江戸遊学の医生中には按摩を夜業とし、苦学大成せし者有りと聞く。精神一倒何事か成らざらん。一旦方針を定めて前進せんとす。何ぞその歩を躊躇(ちゅうちょ)せんや。この事たる冒険不安の挙なりと雖(いえど)も、僻地(へきち)に屈して成す無く、生きて益なきに勝る」と勇気づけました。
母貞子は、高田藩士伊藤源之丞の妹でしたが、伊藤源之丞は、高田藩の300石取りの藩士で目付役を勤めていました。300石というは大身ではありませんが、かといって下級藩士でもありません。また、母貞子は、藩主の奥に勤めていたようです。そのため婚期が遅れたため、豪農の上野家に嫁入りしました。藩主の奥にいたのですから、かなり教養の高い女性だったのではないかと思います。ですから前島密は幼い頃、母からの様々の教えを受け、その影響は大きいものがあったと思います。
なお、前島密は自叙伝の中で、自分は貞子の一人っ子だと書いていますし、上野家では次男だと語っています。つまり、母貞子は、上野助右衛門の継室として上野家に嫁入りしたものだと思います。