有名な「大政奉還」の絵はどこを描いたか
徳川慶喜の大政奉還の説明をする時に、よく引用される絵が聖徳絵画記念館で所蔵している邨田丹陵(むらたたんりょう)の「大政奉還」の絵です。(下記写真) 教科書にも載っている有名な絵です。
この絵の印象から徳川慶喜は、二条城の大広間で大政奉還を表明したと思っている人が多いと思います。
しかし、それは間違いであるということが、2月23日にフジテレビで放送された『世界の何だコレ!?ミステリー 二条城!脅威の仕掛け/ネットで話題・・・奇妙な虹』の中の「教科書などでもお馴染み、あの『大政奉還の絵』に間違いがあった」と題して、本郷和人東大教授が社会科の教員免許をもつ「あばれる君」に解説する場面が放送されました。
この番組で解説された内容については過去に私もブログに書いたことがあったため、その記事にかなりのアクセスがありました。そこで、今回、その記事を以下に再掲載させていただきます。
番組を見逃した方は、2022年3月9日(水)午後7時までは、下記の見逃し配信で見ることができると思いますので、ご覧になってみてください。二条城の大広間での解説ですので状況がよく理解できます。なお、CMが冒頭(場合によっては途中にも)に入っていますので、CMは少し我慢してください。
☆☆☆ 以下、過去の記事の再掲載 ☆☆☆
邨田丹陵の「大政奉還」はどこを描いたか(「青天を衝け」124)
聖徳記念絵画館が所蔵している邨田丹陵(むらたたんりょう)が描いた「大政奉還」は教科書を始めいろいろな本にも引用されている非常に有名な絵です。
上段の間に徳川慶喜が座り、一段低い席の右側の二人は松平容保と松平定敬(慶喜の右が松平容保、さらにその右が松平定敬)が描かれています。
以前、「この絵は、(諸藩の重役に大政奉還を表明したものではなく、)慶喜が、10月12日の幕府諸役人向けに訓示を行っている絵だと思います。」と書きました。いろいろ調べてみるとこの通りでしたので、今日は、この絵について少し詳しく説明していきたいと思います。(なお、下写真は、明治神宮境内に展示されていたものを撮影したものです。)
まず、大政奉還がどのような経緯で行われたか、改めて確認していきたいと思います。
10月3日、後藤象二郎が老中板倉勝静(かつきよ)に面会し山内容堂の大政奉還建白書を提出しました。
10月12日、慶喜は、老中以下の諸役人を二条城に招集して王政復古の意向を示しました。この席で徳川慶喜は自ら大政奉還を決意したことを訓示しました。
10月13日、在京諸藩の重臣を二条城に集め、板倉勝静が諮問案(大政奉還上奏案と同じ)を示してその意見を求めました。
10月14日、前述の手続きを経て、慶喜は、高家の大沢基寿を参内させ、大政奉還の上奏文を提出しました。
10月15日摂政二条斉敬・左大臣近衛忠房・右大臣一条実良・議奏・武家伝奏らが小御所に集まって会議を行い、政権返上が許されました。
以上が、大政奉還までの経緯です。
邨田丹稜が描いた「大政奉還」は、このうち、10月13日の在京諸藩の重臣を集めて意見を求めた場面を描いたものと誤解された記述がみられます。
例えば、江戸文化歴史検定の参考図書として推奨されていた『疾走!幕末・維新』では、邨田丹稜『大政奉還』の説明として「慶応3年10月13日、二条城に集められた諸藩の代表者たちの前で、慶喜は大政を朝廷に返上することを告げた。」と書いてあります。
また、高校日本史の副教本の浜島書店刊「新詳日本史」にもこの絵が掲載されていて、「15代将軍慶喜は1867年10月13日、二条城に諸藩の重臣を集め、大政奉還について諮問」と解説してあります。
しかし、「徳川慶喜公伝」を読むと、10月13日には、二条城の大広間に諸藩の代表を集めて、大政奉還について意見を述べるように命じていますが、この席には出座したのは、老中板倉勝静、大目付戸川忠愛、目付設楽岩次郎等でした。つまり、慶喜は、諸藩の重役に大政奉還を表明した席には出席していませんでした。
この場に出席していた板倉勝静は、大政奉還上表文案を回覧し、意見具申をしたい者は残れと指示しています。そして、意見具申をするために薩摩藩小松帯刀、芸州藩辻将曹、土佐藩の後藤象二郎・福岡藤次、宇和島藩都築荘蔵、備前藩牧野権六郎の6名が残こりました。
薩土芸の4人は、同じ意見であるので一緒に申し上げたいと希望したので4人が一緒に慶喜に拝謁し意見を述べました。都築荘蔵と牧野権六郎は4人の後、別々に拝謁しました。
つまり13日には、慶喜は、大勢の諸藩代表者の前に出座して大政奉還を表明することはなく、数人の意見具申をする者たちと会っただけでした。
一方、慶喜が多人数の前に出座して大政奉還を表明したのは、12日の幕府の諸役人を対象にした席です。この時は、慶喜自身が出座して大政奉還すべき事情を訓示しています。
従って、慶喜が出座して大政奉還を表明したのは10月12日でした。
また、諸藩の重役が集められたのは大広間でしたが、邨田丹陵の「大政奉還」に描かれている部屋は大広間ではありません。
下写真が、二条城の大広間の写真ですが、襖絵は狩野探幽が描いた松で、邨田丹陵の「大政奉還」に描かれている桜の襖絵とは明らかに違っています。
「二条城公式ホームページより許可を得て転載」
それでは邨田丹陵の「大政奉還」に描かれている部屋はどこかということになりますが、「大政奉還」に描かれている部屋は、二条城の黒書院です。
下写真が、二条城の黒書院ですが、ここに描かれている襖絵は桜の襖絵で「大政奉還」で描かれている襖絵と同じです。
黒書院は将軍と徳川家に近い大名や高位の公家などが対面した部屋です。一の間と二の間は、満開の桜が描かれていることから「桜の間」と呼ばれます。襖絵は狩野探幽の弟・尚信筆です。
「二条城公式ホームページより許可を得て転載」
このようにみてくると邨田丹陵の「大政奉還」は、9月13日の諸藩の重臣に大政奉還を表明した場面を描いたものではなく、9月12日に慶喜自らが幕府の役人に大政奉還を表明した際の様子を描いたものであることが分かると思います。
最後に補足説明を3点します。
①邨田丹陵の「大政奉還」で慶喜より一段低い席の左側に3人の人物がいますが、このうち最も左が老中板倉勝静で最も右が永井尚志です。中央はハッキリしません。(「聖徳記念絵画館」確認した結果です。)
②13日に意見具申のため残った四人を慶喜が謁見した絵も残されています。それが、「宮内庁所蔵『明治天皇御紀 付図稿本』」(下写真)です。これには、人物名も付記されていて、上座が将軍慶喜、下座の最も奥に控えているのが老中板倉勝静、手前の4人は右から小松帯刀、辻将曹、後藤象二郎、福岡藤次です。奥の襖絵が松ですので、大広間であることがわかります。
出典「宮内庁ホームページ https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Kobunsho/Viewer/4000742080000/ab236ecb3dc44b6583c07968d3461225)
➂二条城の大広間には、将軍が諸大名を謁見しているシーンを人形を利用して再現しています。(下写真)しかし、これは慶喜が大政奉還を表明した場面を再現したものではありませんので、注意して観たほうがよいと思います。
「二条城公式ホームページより許可を得て転載」