前島密、江戸で西洋の技術・知識を学ぶ(前島密②)
前島密の生涯の2回目ですが、前島密は、江戸で先生を変えながらいろいろなことを学んでいますので、今日は、その江戸での学びについて書いていきます。
「国立国会図書館蔵」
弘化4年(1847)9月江戸に着いた前島密は、糸魚川藩邸の人々にオランダ医術を教える人を尋ねたところわからないということなので、やむをえず漢学、町医者、あるいは幕府医師など先生を次々と変えて、先生の家の雑用をしながら学問を続けました。
そうしているうち糸魚川の叔父相沢文仲がなくなり、相続争いが起こっため、一旦、越後に戻ることになり、それが解決したのち江戸にまた戻り、幕府の医師の長尾全庵の食客となったものの貧しい生活を送り、写本の下請けなどを行い、生活費を得ました。写本は生活費だけでなく知識を得るにも役立ち、郵政博物館紀要「『日本文明の一大恩人』前島密の思想的背景と文明開化」によれば、筆写した中でも「三兵答古知幾(タクチーキ)」が非常に役立ったそうです。「三兵答古知幾(タクチーキ)」という本は、高野長英が翻訳した戦術書で、三兵とは歩兵、騎兵、砲兵を指し、答古知幾(タクチーキ)はオランダ語の戦術taktiekの音訳です。
嘉永6年(1853)6月、アメリカのペリー提督が軍艦4隻を率いて浦賀に来航しました。この時、前島密は、浦賀奉行井戸石見守弘道の従者となり浦賀に行き、ペリー艦隊の様子を見たら、ただちに江戸に戻ってきました。
そして、海防の実地を知ろうと山陰道を通り長崎まで足を延ばし九州各地、四国、紀伊半島などを訪ね、各地の港湾などを見聞してきてきました。
しかし、江戸に戻り、血気に駆られた妄動だったと反省し、今後は学問を修め行動しようと考え、安政2年(1855)、林大学頭の親戚の設楽弾正家に寄寓することになりました。
そこで、設楽弾正の兄の岩瀬忠震から2回ほど教えを受けることができ、岩瀬忠震から「およそ国家の志士たる者は、英国の言語を学ばざるべからず。英語は米国の国語となれるのみならず、広く亜細亜の要地に通用せり。かつ英国は貿易は勿論、海軍も盛大にして文武百芸諸国に冠たり、和蘭の如きは萎靡不振、学ぶに足るものなし」と教えてもらいました。
それを聞いた前島密は、英語を学ぼうとしましたが、江戸では英語の教師がいないうえ、英語の書籍を得ることもできませんでした。そこで、前島密は、下曾根金三郎に銃隊操練および大砲使用の一端を学び、また設楽家の家臣中条某に数学を学びました。
その後、安政4年(1857)、幕府がオランダから譲り受けた日本最初の洋式軍艦観光丸が長崎から江戸に回航されてきました。そして、のちに観光丸の運用長となる竹内貞基が度々旗本江原桂介邸を訪れ、江原桂介家に寄宿していた前島密は、竹内貞基から機関学の教授を受けました。さらに、自叙伝によれば、「余を援助して幕府新設の海軍操練所(正しくは軍艦教授所と思われる)生徒たらしめ」たそうです。そして、観光丸の試運転に規則以外の見習生として伝習生の衣服を貸して乗船させてくれ、横須賀湾に一泊した夜には、雪が降る中の甲板上で横須賀湾が将来重要になることなどを説明してくれました。
竹内貞基は、通称を卯吉郎と言い、前島密は、竹内卯吉郎と呼んでいます。高島秋帆に砲術を学び皆伝を得ています。16歳のとき,船番役を命ぜられ長崎奉行所直属の役人になり、オランダ人より蒸気船運用法,反射炉使用法を学びました。
その後佐賀藩で航海術を教授し,鍋島直正の依頼で,わが国最初の木製機関雛形を造っています。その後、長崎に設置された長崎海軍伝習所の一期生として航海術などを学んでいます。安政4年観光丸を長崎から江戸へ回航させ,幕府軍艦教授所教授となり、翌年同艦運用長に任ぜられました。
こうして軍艦教授所(のちの軍艦操練所)に入って軍艦のことを学び始めた前島密ですが、海軍のことだけを学ぶのに飽き足らなくて、箱館の武田菱三郎の諸術調所に入学したいと思うようになり、箱館に向かうことになりますが、その話は次回書こうと思います。