前島密、江戸遷都を建言する(前島密⑦)
慶応4年(1868)1月、兵庫から江戸に戻った前島密は、2月に勘定役格徒歩目付役
に任命さらました。その頃、最後の将軍徳川慶喜は、2月12日、上野寛永寺の大慈院で謹慎し、2月15日に新政府軍の東征軍は京都を出発しましたが、先鋒は箱根の山を越えようとしていました。
徒歩目付役に任命された前島密は、目付の平岡凞一とともに官軍迎接役として小田原まで出張しましたが、新政府軍は関門を設けていて、先に進むことができないため、やむなく江戸に戻りました。
こうした時期、大久保利通の大坂遷都論を耳にした前島密は、大久保利通に「江戸遷都」を献言しました。
前島密は次のような理由から江戸を都とすべきと建言しています。
①蝦夷(北海道)が開拓されると江戸が日本の中央となる。
②江戸は、近くに良港を得やすいし、船を修繕するのに容易な横須賀がある。
③江戸は広い平野にあり、八方に通じる広い道路がある。
④江戸は既に市街が出来上がっていて新たに工事をする必要がない。
⑤江戸が都とならないと市民が離散してさびれてしまう。
また、自叙伝によれば、新政府に徹底抗戦を主張していた榎本武揚と大鳥圭介に対して恭順するよう諫言したものの、「賊臣」とみなされ、秘かに殺されそうであったそうです。二人は結局、箱館にまで転戦して新政府軍と戦っていますが、榎本武揚は、第一次伊藤博文内閣で逓信大臣となり、前島密は、榎本武揚から要請されて逓信次官に就任しています。
慶応4年閏4月、徳川宗家の相続が田安亀之助に許され、田安亀之助は、5月徳川家達として駿遠参三州に七十万石を賜わることになりました。
前島密は、静岡藩に仕えるか「進路を転じて商業に従事」(自叙伝より)しようかなどと迷っていましたが、勝海舟から静岡藩留守居役に任命され、静岡藩に仕えることになりました。
静岡藩での前島密の活躍は、次回に書きます。