前島密、遠州中泉奉行となる(前島密⑧)
前島密は、慶年4年(1868)、静岡藩留守居役となりましたが、留守居役が廃止されたため、公用人となりました。
明治元年(1868)11月11日、明治天皇は、徳川家達に拝謁を賜りました。その際に公用人であった前島密も随伴しました。この時、徳川家達が江戸城を見て、「父上、これはどなたの御城ですか?」と問うたエピソードが自叙伝に次のように書かれています。
「聖上(明治天皇のこと)は特に徳川亀之助(徳川家達のこと)に拝謁被仰付たるを以て参向すべしとの御沙汰有り。田安中納言(田安慶頼-徳川家達の父)は後見者として随伴し、余(前島密のこと)は公用人として扈従(こしよう)せり。二重橋外にて駕(かご)を下り、中納言は公の手を取り、徐々にその歩を進めたるに、亀之助公は『これはどなたのおうちか』と問われたり。」
拝謁の時、徳川家達はまだ満5歳でした。もし、幕府が継続していれば江戸城の主は徳川家達であったかもしれませんが、そうしたことを知るよしもなく、素直な疑問を田安慶頼にぶっけたわけです。これを聞いた旧幕臣の中には涙した人もいたことでしょう。前島密もその一人だったかもしれません。
明治2年に各藩の公用人が廃止されたことに伴い、前島密は遠州中泉奉行となりました。
遠州の中泉と言う地名はあまり馴染みがありませんが、現在の磐田市にあります。中泉は、東海道五十三次の一つ見付宿の隣にあり、東海道は見付宿から中泉を通り、天竜川の渡しに向かっていました。そして、江戸時代初期には、家康が造営した中泉御殿があり、また、江戸時代を通じて中泉代官が置かれました。
中泉は、もともと古代から遠江の中心として繁栄し、奈良時代には遠江国府や遠江国分寺が置かれました。
そして、戦国時代の終わり、徳川家康が遠江を勢力下に治めると、徳川家康により中泉御殿が造られました。中泉御殿は、天正12~15年(1584~1587)に整備されました。一万坪の敷地に水濠をめぐらせたもので、鷹狩りや、東海道往来時の家康の宿泊施設として利用されたようです。御殿は寛文10年(1670)に廃止されました。
また、遠江一帯の天領を治めた中泉代官も置かれました。
江戸時代初期、遠江には数名の代官が任命され、中泉などに陣屋が置かれましたが、次第に整理され、中泉代官のみとなります。中泉代官は遠江をはじめ三河などの天領を支配しました。
中泉代官は、慶長6年( 1601)に岡田郷右衛門が初代の代官になったのに始まり、伊奈忠次、羽倉簡堂など50名余が代官に任命されています。
明治になり、静岡藩が置かれると、遠江国の天領を管理していた中泉代官は廃止され、静岡藩の中泉奉行が設置されました。その初代奉行に前島密が任命されました。
前島密は、従前の中泉代官の陣屋で執務し、民政を執りしきるほか、江戸から無禄で移住した旧幕臣の世話を行い、彼らに桑の栽培法や養蚕の方法を教えたり、また、道場や学校を開き子弟の教育に力を注ぎました。子供たちの教育には前島密があたることもありました。
この中泉奉行時代の前島密の業績のひとつに「救院」を設置したことがあります。前島密は、明治元年の水害などによる窮民の救済のため、中泉奉行所管内約200の寺院に救院の設置を要請しました。この要請を受けた寺院は共同で、中泉村泉蔵寺(せんそうじ)を仮の「救院」とし、運営も経費も寺院の手でおこなわれています。
こうして民政を担当していましたが、明治政府が諸藩の奉行職を廃止したため、前島密も中泉奉行の職と解かれることになり、静岡に戻り、新しく設けられた開業方物産掛と言う職に任命されました。
前島密が中泉奉行に在職したのはわずか8ヶ月でした。
なお、この頃、前嶋密と名乗るようになったといわれています。それまでは、前島来輔と名乗っていましたが、明治3年11月19日の太政官布告第845で、これには「国名並旧官名ヲ以テ通称ト為スヲ禁ス」つまり「国名並びに旧官名をもって通称とすることを禁ず」と定められていました。これにより「〇太夫」「〇左衛門」「〇右衛門」「〇輔・〇介」等の名前は禁止されました。そのため、「来輔」と言う名前が使用できなくなり、前島密を正式な名前にしたと思われます。

